『人格者ってどんな人?』
http://akimine-hm1283.blog.jp/archives/7976260.html
で触れたようにじつに難しいものに感じますね。

ひとことに「あの人は人格者だ」「人徳のある人間だ」「義を重んじる方だ」にはおよそ感じ取る個人差も有るはずです。しかしその定義となるものは何か?過去の歴史上『義人』と言われた方は人々から敬いられ、神仏化した『義人』もいらっしゃいます。

どうやったらそんな人に?

いまは、言うまでもなく学歴社会であり、就職すればその先は役職重視です。役職には一種の公共性が潜みます。社会倫理が加えられ、役職に就いた者の行動も不祥事が起きた際の「叩き」材料に成り得ます。会社も責任を被りましょう。昇格したその人が、業績へ貢献し利益をもたらしたとしても「人として」の面も役職判断するときの材料と認識を持つべきではないでしょうか。

利益追求の資本主義社会に「人として」の倫理も必要に思います。“仕事はできないが人はいい”、“人は良くないが仕事はできる”。難しい判断に立たされたときは、《その真ん中》を持つべきです。


ところで『義』や『徳』そして『人格者』や『義人』について探求しておりますが、こちらのブログの文書から今日は探っていきたいと思います。もちろんいつものように著者にお断りを入れブログの使用許可は戴いております。

参照するブログの冒頭部分で、《老子、孟子、荀子、易経、孫子、神道、武士道などをなるべく実学に近い形で学びたいと想っています。》と記してあって、その中身はじつに参考になること間違いと思います。



〜社長ブログ〜

にほんブログ村 本ブログ ノンフィクションへ
にほんブログ村




【徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳】
講老箚記 – 東洋思想・哲学・文化の研究さんより

http://kourousakki.com/zuisou/1657/

大学之道、在明明徳、

大学の道は明徳を明らかにするに在り。
(『大学』)


日本、東洋において人物・修養を考えるとき、「徳」という概念がしばしば登場し、「あの人は徳がある」、「不徳の致すところ」といった表現が自然に使われます。そして、それは特定の思想に限定されたものでなく、孔孟の儒教、老荘の道教、そして日本の神道、また武士道といったあらゆる思想・文化において現れます。

しかし、「徳とは何か」と問われるとよくわからない。おぼつかないながら、この「徳」という問題について少し論じてみたいと思います。

「徳」は「道」が人間に発したもの私が「徳」について、なんとなく輪郭を感じたのは以下の一節です。

「徳」とは「宇宙生命より得たるもの」をいうので、人間はもちろん一切のものは「徳」のためにある。「徳」は「得」であります。それには種々あって、欲もあれば良心もある。すべてを含んで「徳」というのであるが、その得た本質なるものを特に「徳」という。

そして、我々の「徳」の発生する本源、己れを包容し超越している大生命を「道」という。だから要するに「道」とは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以のもの、これなくして宇宙も人生も存在することができない、その本質的なものが「道」で、それが人間に発して「徳」となる。

(安岡正篤 『人物を創る』より抜粋)


つまり、根本、大本は自然である。「徳」というと、何か人為的に生み出された形式であるように思われがちですが、決してそういうものではない。自然の運行(「道」)があり、それが人間に発して「徳」である。

例えば、私たちが親に感謝したり、恩師を尊敬したりする気持ちは、決して「教えられた」ものではないと思います。それは人として自然に発生する感情です。

だから、「徳」には「美徳」もあれば「悪徳」もある。それは人間が自然に有するものです。「欲望」も「才知」も「徳」の一種である。「徳」は人間において、無限に分化・発達していると捉えることもできます。

ただ、分化・発達すると矛盾が生じます。「才知」に走り過ぎて、「敬愛」を忘れたりする。この人間の性質において、本質が何かを自覚しなければ、神経衰弱・人格破綻を引き起こしてしまう。そこで、人が本来的に持つもっとも本質、大切なものを特に「徳」と呼びます。



「才知」と「敬愛」のどちらが本質か

「才知」と「敬愛」のどちらが本質かという問題については、主義の問題かもしれませんが、より不変的なものである「敬愛」が本質と私は思います。

例えば、現代では小学生でも「地球は太陽の周りを回っている」ということを知っていますし、高学年にもなれば「水という物質は水素原子と酸素原子が2:1で結合して構成されている」ということを知っているかもしれません。これは「才知」の作用であり、人間が持つ素晴らしい「徳」の1つです。

ただ、このような知識を知らないからと言って、三国志の劉備を現代の小学生より劣っていると見るか。聖徳太子や徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛を愚者とするかというと、そんなことは決してないと思います。

彼らにはもちろん才もあったと思いますが、人心を感化する威があり、徳があった。それでこそ、偉業を為すことができ、我々に感動を与えるのだと思います。

「才知」は1つの例に過ぎませんが、何を人間の本質とし、重視するかはとても大切な問題だと思います。


玄徳 – 『老子』の徳

生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳、

生じて而も有せず、為して而も恃まず、長となりて而も宰たらざる、是れを玄徳と謂う。

(老子 上編 第十章)


『老子』には「玄徳」という概念が出てきます。これは、「自然」をもっとも本質とする概念です。人が持つ、もっとも自然な性質は目が見える、耳が聞こえる。そして何より、「生きている」ということです。

それをそのまま、出来るだけ「自然」に受け入れる。「自然」は何かを所有したり、期待したり、取り仕切ろうとはしない。ただ、そのままに在る。これが「玄徳」が目指す姿であり、これは「真」の生活です。


明徳 – 『大学』の徳

一方で儒学では「明徳」を説きます。儒学の入門書ともいわれる『大学』の書き出しが冒頭でご紹介した、

大学之道、在明明徳、

大学の道は明徳を明らかにするに在り。

(『大学』)


です。『老子』の「玄徳」は自然であり、自覚できないあらゆる自然を包含しますが、修己治人(自己を修め、人を治めること)を目的とする現実学問である儒学の「明徳」はより自覚的な生活です。

少し概念的ですが、太陽光が7色の連続スペクトルとして認識されるのは、地球の大気の作用であり、また人の目がその波長域しか認識できないからです。太陽光は本来、それらの色閾以外も含んでいます。

ただ、現実生活からすると後者の太陽光そのものより、前者の知覚できる「太陽光」をどう活かすかが重要な問題です。現代では可視光以外のエックス線の活用などもありますが、要するに現実に即して捉える。これが儒学の立場、「明徳」の立場です。

意識にのぼり、感覚で捉え、知性・理性によって把握するのが「明徳」の世界です。「玄徳」から「明徳」が発しているとも言えますし、「明徳」を極めれば「玄徳」に至るとも捉えることができます。



陰徳 – 徳を積む

何を大切に想うかは自覚の深さによりますが、その自覚した本性、つまり「徳」を静かに実行すること。他者の評価のためでなく、自己のために押し進めることを「陰徳」と呼びます。

この「陰徳」の積み重ねがいわゆる「徳を積む」ということ。「徳がある」、「不徳の致すところ」と言うときの「徳」とは、この「陰徳」をいかに積んだかを表現する言葉です。

そして、その「徳」に我々は感じ、動かされる。「徳」というと小難しいですが、思いやりがあり、人のために智慧を活かし、人同士の衝突や感情を適切にさばいていく人物を尊敬する。

「徳を積む」とは、人として「素朴に生きる」ことだとも思います。




合わせてこちらも。





『墨子思想の最高理念』
【義】墨子思想の最高理念


「義」という言葉は、漢民族の中国人は勿論のこと、日本人とアジア系民族には、ほぼ理解が共通する概念を言い表すものである。

ところが、「義」を国際公用語である英語に置換しようとしても、該当する言語が存在しないことに気がつく。

たとえば、英語で「義」を表現しようと思えば、Justice(ジャスティス=正義)、morality(モラリティ=道義、論理)、loyalty(ロイヤルティ=忠義)というように、前後の文脈に応じて使い分けなければ正確に意味が通じないことになってしまう。

ヤクザの親分は、「義の父」ということになるが、これを英語で言えばビジネスマンが上司の意味で使うboss(ボス=上司、社長)か、father in law(ファーザー・イン・ロウ=義父)などという珍妙な翻訳になりかねない。

いま、多くの日本語が国際語としてそのまま使われているが、yakuza(ヤクザ)やoyabun(親分)も英語圏の多くで国際語化している傾向にある。

これは、「義」という言葉が内包する正義や忠誠心、公正さ、誠実さ、思いやり、不屈の精神性などを自然に心情としてひとつに言い表す言語が英語には存在しないからである。

強いて欧米人に日本語としての「義」を説明しようと思えば、そのままgi(義)とした上で、その意味を「自分の利益を顧みず他者を助けて報酬を求めない考え方」「不当な権力を挫き、弱者を救う心と行動」「嘘をつかず、卑怯な行いをせず、自らの生き方でこれを実践すると同時に他者の卑怯をも敵として、これを改めずに人の世の和を乱す者には独力でも闘う意志」などと、極めて即物的に教えなければならなくなる。

漢文化系のアジア人と日本人には、そのような面倒な解説は不要で、日本社会に生まれ育てば、「義」というものを感性として理解できる。

こうした観点からいえば、「義」を取り戻し、その実践によって日本の国体と国力を回復すると同時に、国際社会の諸問題を解決する糸口を付与し得るのは私たち日本人や中国文化圏の民族でなければならないことがわかる。

このことは、誠に重大である。

なぜならば、墨子を生んだ中国も「義」の感性を国民的に理解している日本も、欧米から輸入した議会制民主主義制度や、そこから派生した市場原理主義、金銭至上主義に乗っ取られ、人間が本来持つ情理や人生の美学や哲学を破壊されたからである。

「義」という言葉を持たない国の文化文明に、「義」の民族性が侵食された姿が、現在の日本社会であり日本国民の姿なのだ。

(侠ー墨子 松本州弘著より)





百聞は一見にしかず
(いくら人から聞いても、自分で見なければ本当のことはわからない)
百見は一考にしかず
(いくらたくさん見ても、考えなければ前に進まない)
百考は一行にしかず
(どんなに考えても「行動」を起こさなければ前には進まない)
百行は一果にしかず
(どんなに行動をしても、成果を残さなければ成長しない)

(漢文)
百聞不如一見・
百見不如一考・
百考不如一行・
百行不如一果。


どうするかはそれぞれです。

しかし。人生の最後を迎えるときに「この一生悔いなし」と後悔なく思えればそれで良いのです。
はて、あなたの有意義とはどっち?



『人物を創る―「大学」「小学」 (人間学講話)』安岡 正篤

2014-09-01-15-10-18


『禅と陽明学〈上〉 (人間学講話)』安岡 正篤


『禅と陽明学〈下〉 (人間学講話)』安岡 正篤



『王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問―現代活学講話選集』安岡 正篤



『人生の大則―人間学講話』
安岡 正篤



『「人間」としての生き方 ー安岡 正篤』


安岡/正篤
明治31年、大阪府に生まれる。東京大学法学部卒業。「東洋思想研究所」「国維会」「日本農士学校」「篤農協会」等を設立。また、戦後は「全国師友協会」「新日本協議会」等をつくり、政財界の精神的支柱として多くの敬仰者を持った。全国師友協会会長、松下政経塾相談役を歴任。昭和58年12月逝去