【備忘録へ】
メールで送られてきた文に気づく。内容を読ませて頂いたが大した内容であったため備忘録として残す。送り主は匿名だが御礼を申し上げたい。


(以下原文のまま)

 もし、「大東亜戦争正当論」を語るとすれば、歴史研究家である草地貞吾・元関東軍作戦班長=大佐の著書「大東亜戦争正当論-大東亜戦争は空前の人類革命」(日本民族覚醒の会刊)を参考にするのが、もっとも手っ取り早いであろう。草地貞吾・元関東軍作戦班長=大佐は、以下のように述べている。

「わが日本国家・民族が、総力を動員結集した大東亜戦争がなかったとすれば、間違いなく、アジア・アフリカ有色人種・民族四十億が、今日現在(二十世紀後半)の如き、自由・平等・解放・自主・互恵・博愛の人類理想を実現獲得することは不可能であった。このことは私が、戦後五十年間にわたり、東西古今の歴史を一意専心、周到且つ真剣に研究吟味した上での結論である。

 大東亜戦争緒戦の威力と成果、そしてこれが、白色人種と有色人種とに与えた物心両面の影響感作は絶大なるものがあった。

 すなわち、昭和十六年(皇紀二六〇一 西暦一九四一)十二月八日の開戦以来、ハワイ奇襲作戦・英国東洋艦隊の撃滅・引き続いてのマレイ上陸からシンガポール攻略作戦・香港攻略戦・フィリピン上陸並びに蘭領インドネシア占領作戦・ビルマ進攻作戦・海軍による南太平洋及びインド洋作戦の如きは、その速度(時間)・戦域(空間)・成果(質量)共、全く空前の破天荒ともいうべきものであった。

それは人類の予想を遙かに越えたもので、あの暴慢なる白人たちの度胆を抜いた。流石に剛腹なイギリスのチャーチル首相でさえ、十二月十日にプリンス・オブ・ウエルズが僚艦レパルスと共に撃沈されたという報道を耳にした時には、『戦争の全期間を通じてこれ程大きなショックを受けたことはなかった。

ベッドに寝転んで転々身もだえした。この報道の恐ろしさが自分の上に襲いかかって来た。・・・』という、率直な回想録を書いている。

 それと同様に、有色人種の突然変異ともいうべき完全覚醒を促した。一言には人類自由・平等の自覚である。

結局のところ、敵方(白人)勢力の急低落に逆比例して我が方(有色人種)勢力は急上昇したのだから、その落差は二乗に二乗、すなわち四乗となって現れた。物理学上における力関係と形而上における風圧関係のいずれも、完全に逆転したのである。

 かくて、大東亜戦争は、この緒戦において完勝した。戦争目的の大部を達成したと言える。

 ところが、戦後の日本には反戦主義者・敗戦自虐症患者が充満していて、徒らに表面的の敗戦のみを難じ、緒戦におけるこの見事なる実質的の大勝利・大成果を口にする人は少ない。

 私の史眼には、緒戦で大体の戦争目的は達成された(東亜解放・人類平等)のだから、これ以上に勝ち過ぎることは禁物(過ぎたるは及ばざる如し)で、『もう、このくらいにして、あとは適当に負けてやれ・・・』と、天なる神様
が行司となって、軍配団扇をあげた程度にしか映らないのである。

すなわち、シナ大陸そのものは大東亜戦争遂行の足場に過ぎなかった。目的達成後、これが取り払われたのはむしろ当然で、その足場が自由・解放されてシナ・朝鮮・台湾等が出現したのも、大東亜戦争の結果の産物である。


〔戦後、白人たちが戻って来たことを考えよ〕
 終戦の後、すなわち昭和二十年八月十五日以降に彼ら白人共は、以前の植民地が忘れられずにノコノコ戻って来た。白人達には旧態どおりに植民地支配の慾望が、まだ、というよりも大いに残っていたのである。そして、それは若干の派兵ぐらいでわけなく実現できるもの甘く考えていたフシがないでもない。

 ところが、どうして、そこには大東亜戦争以前と全く類を異にした物心両面の武力を兼備して、自由・独立・解放の大旆を飾した有色人種が、眥を決して『いざ、ござんなれ!」と待ち構えていた。

 マレイも然り、インドネシアも然り、仏印も然り、ビルマもインドもフィリピンも然りであった。

 これには白人共もビックリ仰天した。それでも昔の植民地は欲しいので兵力の逐次増強を練り返し、印度シナ半島ではテン・ベン・フーの激戦、インドネシアでは、スバラヤ戦争や大規模の独立戦争が行われたが、みな現地側の勝利に帰して白人共は追い返された。

流石に英・米はアグロサクソンとして政治性にすぐれているので、その広大な旧植民地は特に大規模の戦乱はなかったようだが、澎湃たる人種・民族運動の盛り上がりには、如何ともするなく、いずれ
も期年ならずして独立を完成した。すべてこれ大東亜戦争の結果と言わねばならぬ。

 ただ、ここに白人がわけなく帰って来た一例がある。それは、平成九年七月にシナに返還された香港である。

 この香港は、昭和十六年十二月八日の開戦と同時に、支那派遣軍が攻略作戦に任じ、クリスマスの十二月二十五日に完全占領したものである。以来、わが国は香港総督を置いて終戦までその占領統治に当たらしめた。(この事実を知
らない日本人が少なくない。)

 ところで、その香港はもともとシナのものだ。そこに英国が平然として戻って来たのは、当時の中華民国(蒋政権)が弱かったからである。

 香港以外のすべては大東亜戦争のお蔭で強くなっていたから、白人の復帰を許さなかったのである。換言すれば、香港以外の旧植民地も物心両面の力が弱かったならば、香港同様の運命に立ち至ったと言えるだろう。

しかも、香港はもともと租借地で年限があったが、他の植民地には年限がなく、いつまで属国奴隷の境涯に沈淪されたやも計り知れなかったのである。

 もって、三百年間にわたり、白人はもとより有色人種からも『天地無用』と確信されていた世界旧秩序を完全壊滅し、自由闊達なる天地有用の世界新秩序を構築した大東亜戦争の真義を更めて認識するべきであろう。


 〔大東亜戦争は絶好無二の時点に発動した〕
 私は日本史並びに世界史、特に凡ゆる戦争史を究明したが、大東亜戦争はよくぞあの時点で---すなわち昭和十六年十二月八日に発端生起したものかなと、欣喜雀躍の念禁じ得ないものがある。正しくあの時点---歴史には不思議にも運命の時間、或いは時点というものがある。その時点にあらずんば、如何に力んでも花開かず、実熟さざるが如く、その時を得ざれば如何なる歴史も結実しない。その実例を私は大東亜戦争によりはじめて真に認識理解するを得た。

 その理由とする第一として、大東亜戦争の発動は、有史以来、日本国力の最盛期であった。わが国は昭和十五年、皇紀二千六百年を迎えて、世紀の記念事業を挙行し、皇国精神の高揚振張と国力の充実発展は未曾有であった。

固有領土はもとより、樺太・朝鮮・台湾・太平洋諸島・満州・シナ大陸の要部・仏印にまで、その勢力圏を拡大し、それらの人口を加うれば優に二億を超過していたであろう。

正しく堂々たる世界の一等国として、これほど国力の充実した時代はない。すなわち、神武天皇建国の理想たる八紘一宇--世界一家--人類平等の悲願を達成すべき天与の絶好期であったのだ。


〔大東亜戦争が世界歴史の風動を起こした〕
 『歴史の風動』というのは、不肖私の造語かもしれない。以前からこの言葉がありとすれば、私はその作者に従う。いずれにしても私は、この偉大祟厳なる歴史の風動現象を大東亜戦争の緒戦において発見したことを誇りとし、喜びとする。

 長きにわたり、陰湿にして生温い白南風に馴らされていたアジア・アフリカ人種・民族は、毅然として全人類の自由・平等・独立・共存・共栄を呼号する極東君主国日本を基点として発生した時ならぬ大東風に、凛然たる清新快爽の共感を覚えた。

すなわち、一言には、西風急に逆転して東風となった天候気象の大変動的歴史現象に、感奮興起したのである。

 ○東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 と詠じて、明石の亭長に、亭長驚くなかれ時の変改を、一栄一落これ春秋という、諦観の別離を告げ、孤影悄然と太宰府に落ちて行った菅原道真公に似て、曾て地球上七つの海を制した大英帝国は急転直下、太平洋・インド洋より駆逐追放され、大西洋の一隅に屏居するの運命に立ち至った。

 かくの如くにして、東南アジアに発生した大東亜戦争という清新な歴史的不測の一大気圧は、急成長して無類の風動-ハリケーン現象となり、そのままインド大陸を急襲、その勢力を落とすことなく中近東を掠めてアラビア半島を横断、黄塵万丈の渦を捲いて紅海の熱い水気を吸い上げつつ暗黒大陸アフリカに渡り、未だ曾てない沛然たる緑雨をその広大なる砂漠に降らした。

 実に大東亜緒戦におけるこの雄大・壮絶・新鮮なる風動現象こそ、有色人種四十億が、物心両面にわたって起死回生した天与の歴史的風景であったのだ。

見よ、その激甚なる風動の結果、アジア・アフリカ・太平洋地域にはじめて百になんなんとする新興独立国が生まれ、輝かしいそれぞれの国旗が国連本部広場に、これ見よがしにひるがえっているではないか。

 これほどの歴史的現象は、未だ曾て一回も世界史上になかった。もし、ありとするならば、アメリカ(米国)独立戦争の影響(風動)が、中・南米大陸諸国の自主・独立の先導的役割をなしたと言えようが、それも大東亜戦争後の僅々数年乃至十数年という短期間とは比較にならない。

 現在、自由・平等・博愛の思想的象徴とも言われているフランス大革命に至っては、僅かにその思想が残存しているくらいで、その歴史的現実は全く悲惨なものであった。

革命の風動化(伝染)を心配した欧州列国の干渉は、逆にナポレオン戦争の動因となり、挙げ句の果てはナポレオンの帝制樹立、そしてその崩壊からメッテルニヒの主導によるウィーン体制の反動化を招いたことは、今次大東亜戦争のすばらしい進歩性と同日に論ずるわけにまいらない。
 
ただ、平成年代に入って、ベルリンの壁崩壊を端緒とした共産主義の消滅現象が突発し、東欧圏並びにソ連帝国の分解を見たのは、皮肉な世界史の大きな風動的風景--連鎖反応現象として特筆に値するものがある。

だが、これは当事者よりすれば、破壊・分裂・衰退の悲哀史で、大東亜戦争の目覚ましい風動による国家建設・統一・盛興の歓喜史とは程遠いものがある。

 なお、ここで付言したいのは、前記の菅公と西欧人たちの心の持ち方である。菅公は太宰府謫居の後、ひたすら謹慎して一歩も外に出ることなく、

 去年の今夜清涼に侍す、
 秋思の詩篇独り断腸、
 恩賜の御衣は今此にあり、
 棒持して毎日余香を拝す

の詩のとおり、天命に承順した。

 ところが、白人共はどうであったか。昭和二十年八月十五日に終戦となるや、大東亜戦争においてあれほど散々に打ちのめされたことも忘れたかの如く、利を求めて戻ってきた。(前記)そこでまた再度の大反撃を喰らい、渋々逃げ帰って行くという醜態を演じた。 菅公が薨じて永遠の天神様となり、白人たちが生きて生涯の赤恥をかいたのは当然の仕儀である。


〔こうして日本は侵略国にされた〕

 戦争は戦争であって、侵略戦争とか、不侵略戦争とかの差別はない。その点、大東亜戦争のみを侵略戦争として無法且つ一方的に断罪した極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)は、単なる過失という如きものでなく、故意による虚構捏造を敢えてした犯罪行為に該当する。

 私が本小論を書き了えた平成九年四月末に、『こうして日本は侵略国にされた』という御本が冨士信夫氏から郵送されて来た。

 冨士氏は昭和十三年、海軍兵学校を卒業され、昭和二十年の終戦時は海軍少佐で台湾第二十九航空戦隊参謀、同二十一年、第二復員省大臣官房に勤務され、以後、法定係として極東軍事裁判(東京裁判)の大部分の審理を傍聴された俊秀である。

昭和三十二年、厚生省を退職され、以後引続き東京裁判の研究に専念、平成七年、東京裁判資料刊行会編纂委員として菊池寛賞を受賞。主な著書として『私の見た東京裁判』(上・下)、『東京裁判は証言する』(上・下)がある。いずれにしても、今日(平成九年)現存する東京裁判関係者としてこれ以上の権威はいない。この方が、至れり尽せりの研究の結果、東京裁判検証の16のポイントを極めて具体的に挙げ、如何にしたて連合国(敵革)が、無理矢理に日本を侵略国に仕立てたかの手練手管を明らかにしたのが本書である。

 前記した『世界はさばく東京裁判』と相俟って、大東亜戦争正当論に先鞭を着けた。好著として広く江湖に推奨する。


 〔大東亜戦争の正当性を信ず〕
 大東亜戦争は、東京裁判という前代未聞の復讐劇により、無残にも否定・死減の現状に放置されているが、その再生・正当化を私は信ずる者である。それは、『歴史は常に正義に組する』という、私の不動なる歴史観の所産である。

 不法無体の軍事裁判の如きは、何よりも先ず神が認めない。現に戦後五十余年、世界には百回に余る戦争が発生したが、未だ一回の軍事裁判も行われていないではないか。

 大事なことだから重ねて書くが、戦争は飽くまで戦争で、侵略戦争も不侵略戦争もないのである。もしも万一、第二次世界大戦で枢軸側が勝っておれば、連合側は侵略戦争をしたことになったであろうか?この設問によって読者諸彦の御賢察を乞う。

 されば現在、東京裁判の誤りというよりもその無法を告発する論議が全世界的に起こりつつある。特に平成七年二月二十日に東京裁判資料刊行会によって『東京裁判 却下未提出 辮護側資料』(全八巻)という、世紀の東京裁判批判書が発行され、全国図書館にも配布された。『天網恢々疎にして漏らさず』の金言どおり、その大冊の本は余すところなく東京裁判が勝者による一方的の報復私刑なるの性格と改めて明白にしており、世の識者達に、『東京裁判の再審理をせよ』と迫っている。これが公的告発の第一号である。

 されば、世界の常識と歴史の正義は、必ずや『東京裁判』そのものを公明正大なる世界の法廷に引きずり出して再審検討を加えるだろう。

 恰もまた前記の『世界がさばく東京裁判』の出現がその第二号である。かくて、止むなく被告席に立たされる『東京裁判』という法人は、オウム真理教の麻原の如く、ゴネるであろうが、何分にも大東亜戦争の無実を無法に処刑・処断した罪刑は重く、死刑を宣告されるにちがいない。快なるかな!

 『東京裁判』そのものの絞首刑執行の日は、すなわち『大東亜戦争』正当化・蘇生の日である。それは単なる死者の名誉回復という如き小乗的姑息のものでなく、燦然として世界史を照破して立つ『大東亜戦争』の生きたる大乗的雄偉の真姿であるにちがいない。

 この秋、はじめて日本の戦後民主主義なる妖霧は一気に消散する。かくて天日昭々の下『君が代』は声高らかに斉唱され、『日の丸』はへんぽんとひるがえる。『大東亜戦争』の正当化は、即『日本国家』の輝かしい再生でもあるのだ。

 この時、第一番に喜ばれるのは、大東亜戦争に散華された忠勇義烈なる護国の英霊雄魂である。為政者はもとより、天下万民はその大前にひれ伏して衷心より慰霊顕彰の誠を捧げなければならぬ。同時にまた、枢軸側・連合側を問わず、世界万国の戦争犠牲者に対しても、第二次世界大戦という世界改造一新の大業のため、それぞれの祖国の命により、勇戦敢闘した同志でこそあったこと想到し、畏敬・同情・哀悼の涙を流すべきであろう。


 〔大東亜戦争は空前の人類革命〕
 いわゆる大航海時代以降(大体五百年間)、人類はその肌の色合い(白・黄・黒・褐等)によって大きく差別されて来た。一言には世界人口の二割程度しか占めていない白色人種が、この地球上を思うがままに支配するものなりという、認識・観念の普遍的固定化であった。されば、日本はこれが是正のため、第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議において、人類平等、人権自由の人道的立場から、人種差別撤廃案を提出したが、西欧列強の不問に付されたまま第二次世界大戦(大東亜戦争)を迎えた。

 そのため大東亜戦争が、図らずも問答無用ともいうべき人種差別廃止の実行策となったことは、皮肉の極みと言ってよかろう。かくて、五世紀の長きにわたり全く不文律化していた白色人種の超弩級的優越観念と有色人種の無条件的劣敗心理が、一朝にして逆転した現象は、人文五千年の歴史の中に見出すことはできない。

アジア・アフリカ地域ナショナリズムの噴騰と、人間みな同一なりとの覚醒は完全無欠に大東亜戦争が招来したゆえんたることを知らねばならぬ。

 実に大東亜戦争の一挙は、そのまま世界史上空前なる人類革命であったのだ。それは二百年前、中世的君主専制に反抗して決起したフランス革命や米州独立を遙かに凌駕した全人類的最終革命であり、世界秩序の構築・建設であっ
た。

 ○大東亜 大御戦は 歴史を照らす 鑑なるかな


 〔大東亜戦争は絶好無二の時点に発動した〕
その第二の理由は、予想大東亜戦場における敵方戦力の最低時であった。あの当時は恰も欧州において、独・伊枢軸側と英・ソ連側が、第二次世界大戦ともいうべき死闘を続けていた。ために、英・ソ連合側の東亜に対する戦力の増強指向は自ら制限せられた。加えてわが国は、ソ連との間に、昭和十六年五月、不可侵条約を結び、対北方の危険性が緩和された。

 反面、当時のアジア全地域は三百年来、白色帝国主義に完全支配され、ひたすら奴隷的桃源の甘夢をむさぼっている状態であった。ただ、残された問題は米国であるが、米国太平洋艦隊の根拠はハワイを急襲成功すれば一年ぐらいの
余裕が生じ、それまでの間に大東亜戦場の形勢は世界全戦場との関連において、何とかなるだろう程度の大本営判断ではなかったか。

それ以上のことは、神様でも分かるものではない。
 
大東亜戦争を頭から無謀の戦争という連中が多いが、前述の桶狭間合戦や関が原合戦、また日清・日露戦争に比しても決して無謀なというに当たらない。それが売られたケンカなるにおいて特に然りである。

 その第三は、台湾・海南島・仏印(インドシナ)にまで作戦面が延伸し、好適の前進基地が設定せられたことである。大観すれば日露戦争以来の歴史の集積の結果であり、ここまで出ていなければ、白色人種東亜の牙城シンガポール
を攻略奪取することは、当時の戦争手段では不可能であったからだ。これを要するに、わが作戦発起地が仏印に推進せられざるかぎり、大東亜戦争の発動は無理であった。

 その第四の理由は、関特演(関東軍特殊演習)として対北方準備陣を布いていたことである。昭和十六年六月二十二日、突如として欧州東方戦線に独ソ戦が発生した。ためにわが国は北方情勢の急変に対処するため、七、八の両月にわたり約五十万に及ぶ兵力の大動員を行い、その主力を関東軍隷下に入れ、対北方警戒に遺憾なからしめた。これが、はしなくも大東亜戦争の総予備的戦力--昔式に言えば後詰め、ということになった。

 逆に言えば、適時に関特演の行われたこと自体、南方作戦発動の一つの引鉄的作用をなしたと言えないこともあるまい。かつて、対南方作戦の下準備と心構えが着々と完成しつつあった時しも、ハル・ノートという不遜無法の最後通牒が寄せられたので、チャンスとばかり十二月八日の開戦となった。

 その八日・九日・十日の七十二時間に、世界情勢は完全に一変した。そのことはほかならぬ英国首相チャーチルが告白しているのだから(前記)ウソとは申せまい。

 すなわち、あの十二月八日という時点は、世界史に特筆大書さるべき記念日である。

その意味から言えば、ハルなる人物は、日本に対して、この歴史的最大・最高・最良・絶妙の『時』を与えてくれた恩人と言えないこともない。恰も本能寺の変が、豊臣秀吉に天下人となる絶好の機会を提供してくれた如くに」

(以上)





洪門天地會青蓮堂日本總會

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