短歌は平安時代の「携帯メール」だった!? 日本史の驚きの秘密を明かす

現代ビジネスよりhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/49997


新書大賞2012第1位に輝き、累計30万部を突破した『ふしぎなキリスト教』。その著者ふたりが、このたび満を持して、『げんきな日本論』を刊行する。

「なぜ日本には、天皇がいるのか」「なぜ日本には、院政なるものが生まれるのか」「なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか」これら素朴な日本史上の18大疑問について、明快な答えに辿り着く過程は、痛快無比で実にスリリングだ。


日本に「源氏物語」が存在する理由

大澤 まず日本の文字のことを、ちょっと話しましょう。非常に重要な問題なので。

橋爪 はい。

大澤 なぜこういう、奇妙な文字のシステムができたのか。漢字が入ってきて、万葉仮名を経て、二種類の仮名をつくった。

現在でもわれわれは、漢字を含めた三つの文字のシステムを使っているわけですけれども、考えてみると、これは、かなり複雑なシステムなんですね。

ここは平仮名がちょうどいいとか、ここは漢字とか、直感的に使い分けながら、やっている。その使い分けに、微妙な意味合いがある。

疑問のポイントのひとつは、なぜ仮名に二種類あるのか、ということ。そして、これがほんとうは一番知りたい疑問ですが、なぜ千年も前に、日本には、女性のすぐれた作家が現れ、傑作を著したのか。

女性の文学は仮名の文字と関係していますから。前近代に女性のすぐれた書き手がいるということは、世界的にも珍しいことだと思います。

橋爪 江戸時代には、平仮名の異体字がいっぱいあった。草書体ですから、いろんな漢字を使ってよいのですが、これは万葉仮名のなれの果てとも言える。いずれにせよ、万葉仮名と平仮名は、連続的なのです。

片仮名は、僧侶の便宜のためのものだったが、あるところで進化が止まっちゃっていると思う。平仮名が発達してから、それに対応する片仮名というかたちに、整理された。

そこで、平仮名の用法ですけど、歌と関係が深い。歌は、日本の男女関係や、村落コミュニティの活動などと密接な関係があって、はじめは全部、口頭表現だった。文字がなかったのだから、当然ですね。

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万葉集などに入っているのは、そういう口頭表現の歌で、定型化されたものを、あとから万葉仮名で記録したもの。万葉集には、旋頭歌とか、長歌とか、なんか長たらしいものが多いでしょう。

これは個人的なものというより、儀礼的なものだったと思う。もちろん短歌もある。このうち、平安時代を通してずっと発展して行ったのは、いちばん短い形式の、短歌だった。

さて、田園で、オーラルな歌を詠んでいたなあという記憶がある人びとが、都会の中国風の邸宅に移り住んだのが、貴族です。すだれを垂らして、女性は男性に顔を見られちゃいけない、みたいな風俗になった。接触が難しいほうが、逆に女性の価値を高めるみたいな、戦略もあったと思う。

そうすると、男女のあいだには、コミュニケーションが必要だから、歌をよんで届けることになった。口頭で届かないなら、字で書いて届けなければならない。

男性も女性も字を読み書きしなければならないという状況があって、気がついたら平仮名になっていた。女性も字を書かなければならなかった点が、日本の貴族に特有だったのではないか。

大澤 なるほど。平仮名を書く女性の原点はここですね。

橋爪 中国には漢詩があるが、男女の間でやり取りするものではないな。男女の間で歌を字に書いて、やり取りする文化がどこかにあるかな。

橋爪大三郎氏


大澤 口頭でならよくあると思うんですけれど。

橋爪 うん、口頭なら、至るところにある。

大澤 至るところにあります。むしろ普通です。ただ、それを字でやり取りするのは……

橋爪 なぜ字なのかと言うと、会えないからだ。

大澤 なるほど。

橋爪 今で言うと、携帯メールみたいな感じかな。

大澤 なるほど(笑)。

といった文字の問題を入り口に、世界に類例のない宮廷生活の実態や女性の活動をふまえて、ひらがなと物語の世界を再構成していくのですが、それは本編のお楽しみ。つぎの疑問は、日本にしかいない武士についてです。


〜なぜ日本には、武士なるものが存在するのか〜

大澤 武士が登場する時代は、日本史のハイライトですね。まず、武士の定義は、なんでしょう。

橋爪 武士が、地主かどうか、という問題がありますね。武士は、いったんは地主になるんです。でも江戸時代になると、所領から切り離され、地主かどうかわからなくなる。

大澤 うん、確かに。

橋爪 封建制の定義からすれば、武士は地主でなければおかしい。地主で、自己武装していて、所領の支配権を持っている。でも所領のサイズがとても小さい。

そのため、もっと大きなネットワークを作ろうと、主従契約を結んでいく。その契約のため、土地を媒介にするわけです。従属者は、土地の安全保障が与えられるが、反対に、軍務を提供する義務がある。これが、封建制というものですね。で、武装の形態ですけど、馬に乗る。

大澤 おもしろい着眼点ですね。

橋爪 そして、刀、槍、弓のようなものを武器とする。鎧兜に身を固める。というのが、古典的な戦闘スタイルである。

馬を維持するのに、かなり費用がかかりますが、飼料もなにも、すべて自弁です。

ヨーロッパの封建制の領主は、騎士なわけですが、武士とよく似ている。よく似ているんだけど、ちょっと気になる違いがいっぱいある。

大澤 まず、武士は、あなたは武士ですと任命されるわけじゃない。だから、私たちが、武士と呼ばれるものが、客観的にどんな条件や性質をもっていたかを抽出しなければならないわけですが、橋爪さんのここまでの短い話の中から、武士に二つの側面があることがわかると思います。

第一に、武士は戦闘を遂行する者だということですね。ここから武装の問題が出てくる。しかし、戦闘者なら武士というわけではない。第二に、武士は所領をもっていて領主でもある。ここから、武士は地主かという問題が出てくる。

後者の面に関していうと、歴史のある時期までは、武士自身もふだん農作業に従事していたはずです。武士と農民がほんとうに分かれてくるのは、近世の兵農分離をまたなければならないと思う。

あとの時代のことですが、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)が、川中島の合戦を何回もしているじゃないですか。合戦の時期をみるといつも、田植えや刈り入れのような農繁期を避けていることがわかるそうです。つまりこの時期でも武士は、それなりに農民的な性格をもっていたのです。

それはさておき、武士がどのように武士になったのかを、考えてみたいんです。

平将門は、すでにすっかり、武士のようである。もっと時代をさかのぼって、坂上田村麻呂などになると、果たして武士なのか。ちょっと違うんじゃないかと思う。その違いを、整理しておきたいんです。

橋爪 平将門は、いわゆる武士です。行動様式も武士だし、平氏の一門でもあるし。平将門は、日本刀を初めて使ったという言い伝えがある。

大澤 ああ、そうですか。それは初めて知ったな。

橋爪 日本刀は、片刃の鉄剣で、少し反って、曲がっているところが特徴なのです。最初に伝わった刀は、直刀。まっすぐだった。中国軍の標準装備で、渡来人の技術で伝わったのだろう。日本もそれを採用していた時期が長かった。武士はまず刀からして、それ以前と違っているのですね。

で、私の仮説は、武士は地主が自己武装したものではなく、武装した集団が地主になった、という順番ではないか。

大澤 なるほど。

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橋爪 武装することの根本に、やっぱり馬がある。武士はね、馬に乗る資格のある者(侍)と資格のない者、という区別が、江戸時代も、もっと前も、ずっとある。その、馬に乗る武者が、戦力の中核で、それに歩兵や従卒が従っているのが、武士の戦闘集団のもともとの姿だった。

そこで、馬に注目すると、馬を飼うにはかなり広い場所がいる。経費もかかる。子馬を育てて放し飼いにしておくのは、日本にあんまり適地がない。水田でも畑でもない、利用しにくい空き地だったろう。大陸から渡来した馬は、荷役用や軍用にするためそうした場所で生産され、政府や有力者や業者のもとに届けられたはずだ。

大澤 なるほど。先ほど、武士の二つの側面と言いましたが、領主という側面より戦闘者という側面が先だった、という仮説ですね。

橋爪 牧場を離れて舎飼いする馬は、牧草が不足するので、飼料(干し草)をパッケージにして届ける必要もある。兵糧ですね。そういうビジネスが成立していたはずだ。

そういう牧場を管理していたか、そういう馬にアクセスできる人びとが、いつも馬に乗っているうちに、だんだん乗馬術に習熟していき、荷役や商人を護衛したりしているうちに、騎馬武者に成長していったんじゃないかと思う。

大澤 おもしろい。馬をあやつる、移動や運送の能力に長けた者たちが、武芸も身につけ、武士の起源になった、と。

その武士が、やがて武家政権をつくり、幕府の興亡をへて、戦国大名が覇を競う戦国時代を迎えます。最後に、その中でも傑出したリーダー・信長について、対談の一部を紹介しましょう。


〜なぜ信長は、安土城を造ったのか〜

大澤 戦国大名のなかから、織田信長が現れます。武士たちは、鎌倉幕府にせよ、正統性の調達に困った、という話がありました。北条得宗政権も、あるとき、オセロゲームの裏返しみたいに、武将たちが叛旗を翻して、倒れてしまった。

それで足利政権になるんですけれども、鎌倉幕府よりもいっそう正統性の調達に苦労している。足利一族はもともと御家人にすぎず、武士の集団を率いるリーダーになる確たる理由がない。

三代将軍の義満が、明に朝貢しているのも、あまりにも正統性がないので、明からお墨付きをもらって、冊封体制の中で最低限の正統性を確保したかったからじゃないかと思うんです。

けれども、室町幕府がここまで正統性が希薄だと、逆に、戦国大名が続々名乗りをあげて出現してくる条件となったとも言えますよね。

その中にあって、信長が画期的と言っていい成功を収める。なぜ信長は成功したのでしょうか、あるいは、なぜ最終的には成功を目前にして挫折したのでしょうか。ほかの戦国大名との違いはなにか。

橋爪 戦国大名の特徴は、自分の統治権が、伝統に基づかないこと。

大澤 まさしくその通りですね。

大澤真幸氏


橋爪 守護であることも関係ない。朝廷とも関係ない。領域内に対抗する他の武装勢力が存在しない。存在させない。それがまず第一です。そこで、家臣団を組織し、彼らを軍勢として動員する。そして、域内のどんな農地からも税金を取る。それで最低限の公共サービスを行なう。つまり、政府である。

大澤 日本史上初めて出現した事実上の政府ですね。

橋爪 政府の機能を持っているのです。そういう、正統性のはっきりしない政府が日本中に多数現れた、というのが戦国大名ですね。戦国大名が対抗したのは、従来の、伝統や由緒に基づく所領の支配関係や、支配従属の関係です。これを、軍事的な優位で圧倒し、一元化していく。

この対抗関係は、ヨーロッパの絶対王制が、貴族や封建領主と戦いながら登場していくプロセスと、似たところがある。王も、戦国大名も、歴史のなかに新しく登場した主体なのです。

大澤 戦国大名と絶対王制の類比。おもしろいですね。

橋爪 では、戦国大名の相互関係は、どうなるか。戦国大名が多数集まってネットワークができて安定する、とはならない。戦国大名がつぎつぎ正面衝突し、相手を吸収合併するという、戦国時代の戦争ゲームが起こった。

戦争ゲームの終着点は、唯一の戦国大名が日本中の統治権を握るということなわけ。これは頼朝とは違う。頼朝は御家人を組織しただけだった。けれど戦国大名は、空間を支配している。自分に服属しないものを、残さない。これを、一円支配というのでした。

さて、このような戦国大名の統治が完成した場合、律令制や朝廷とどういう関係になるのかが、大きな問題として残る。レディメイドの解決法は、幕府をつくることです。

大澤 そうですね。

橋爪 もうひとつのレディメイドの解決法は、関白太政大臣になることです。そのどちらでもないもうひとつの可能性は、天皇を廃止して、新しい政府とポストをつくること。少なくともこの三つの可能性があった。

信長はこれらを、意識したはずです。でも、そのどれかをはっきりさせる前に死んでしまった。信長とはそういう存在。戦国大名の極限の可能性を体現した人物だと思う。

織田信長像 〔PHOTO〕gettyimages


大澤 信長というのは、思うに、もちろん、戦国大名の中の戦国大名ですけど、同時に、戦国大名を超える戦国大名といいますか、ふつうの戦国大名だったらまずできなかった域に入りかけた。運がよかっただけじゃない、と思うんですね。

信長は、安土城を造った。本能寺の変のすぐ後に焼失してしまったので、いま残っていないんですけれども、発掘などを通じて研究がなされています。

安土城の間取り等を示す平面図だろうと推認される図面も発見されていて、いろいろなことがわかる。

まず、本丸と天守閣があるじゃないですか。本丸が、京都の御所の清涼殿とほとんど同じ間取りになっているのだそうです。清涼殿というのは、天皇の日常の住まいです。なぜこんなものがあるかというと、天皇を安土城に迎えることを考えていたからです。

以前、安土城の建築の特徴を伝えるNHKスペシャルを見たことがあるのですが内容が濃いおもしろい番組でした、この清涼殿風の本丸について、信長を研究している歴史学者は、信長は天皇に不敬と思われていたが、意外にも天皇を大事にしていたんですね、と解説していた。

でもこれは、天皇への極端な不敬とも言えますよ。信長が天皇に関心をもっていたことは確かですが、今話したように、天皇の方が、信長の城に来ることを想定しているわけです。

これまでの武家政権は、あるいは後の武家政権も、自分と天皇の上下関係をややあいまいにしながら、究極的には天皇の権威のもとにあるという構図だった。

だけど、信長が密かに、あるいはかなりはっきり考えていたのは、自分の方が上で、天皇が下にいること。そういう構図を、視野に入れていたんじゃないかというのが、僕の考えなんですけどね。

橋爪 それはおもしろいですね。その可能性は十分にある。信長は何をやっているかというと、ジェネラル・マッカーサーをやっている。

大澤 うん、なるほど(笑)。

このあと、議論は、信長の驚くべき構想と先進性に進んで行きます。

最近の日本に元気がない。それは、自分たちがどこから来て、どこへ行くのかがわからないから。『げんきな日本論』は、その見失われたストーリーを、世界に通じる言葉で語り直します。これを読めば、きっと誰だって、心の底から元気がわいて来るでしょう。










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