小林です。 
不定期にわたくしの自由提言をブログで述べていますが、こちらについて触れてみたいと思います。


【君子は義に喩り、小人は利に喩る】


君子は義に喩り、小人は利に喩る。
(くんしはぎにさとり、しょうじんはりにさとる) 

【意味】君子は正しい道かどうかで物事を判断し、小人は利益が得られるかどうかで物事を判断する。

*『論語』の一節で、孔子の言葉です。

君子は、学問もある人格者で、小人はまだまだこれから努力の必要な人。

君子は、物事を判断するときに、まずそれが正義にかなうかどうかを考えますが、小人はまず自分の利益になるかどうかを考えるというのです。

人の心は弱いので、つい目先の利益で物事を判断してしまいがちです。

気をつけたいですね。 また、孔子は、利益を得ることがいけないとは言っていません。

別のところでも、道義にはずれて利益を得るのはいけないと言っています。




詩では、『子曰、君子喩於義、小人喩於利』(子曰く、君子は義にさとり、小人は利にさとる)となりますね。

この言葉は、現代社会を投影したものとも思います。自由資本主義というのは、産業が日進月歩である一方、過度な競争社会を作り出し弱肉強食、弱者淘汰、または聞こえのいいグローバル化に感じております。


進化には、犠牲は付き物。
とはいえ、利益ばかりを求めていますと、正しい物事の判断を見失うことがあります。ただ、人びとには生活がありますし、子を養うこともあります。求めても良いものの、求め過ぎないという事が必要なのです。

人間が持つべき道徳心や教養は、あらゆる状況下で発揮ができます。ただ、それが強い「利己心」「私利心」「利益心」ばかりを先に出して、そこから物事を考えてしまいますと、回りが見えているようで、実は見えなくなっていきます。

そして《利》は、なんでもビジネスの世界だけではなく、例えば自分だけ良ければいい、自分とは関係がない、他人は他人などと言った自己主観のモノサシでは、狭義となってしまうという事です。


ただ、残念なのがこれがいまの正常な現代人なのかもしれません。


ある中国の友人から聞いたお話を思い出しました。なんでも2012年ノーベル文学賞を受賞した莫言さんの『我』についてのお話です。

私はふとある日、
『我』(われ)という字の一辺を無くしてしまいました。

『找す』(さおさ・す。意味 探す、尋ねる)という字になってしまい、私は無くした一辺を探す旅へ出ます。一辺の意味を尋ね歩きます。

商人らは、「その一辺はお金だよ」
と答えました。
為政者らは、「その一辺は権力だよ」
と答えました。
有名人らは、「その一辺は名声だよ」
と答えました。
兵士らは、「その一辺は名誉だよ」
と答えました。
学生らは、「その一辺は分数だよ」
と答えました。

最後に《生活》に会い、
「その一辺は健康と喜びだよ」と答えました。

「これがなければ何も成されないでしょう?」と。
私は、一辺を取り戻し『我』に還ることが出来ました。







つづく





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