日本史上最大の愚挙!? 
秀吉はなぜ「朝鮮出兵」
を企てたのか

現代ビジネスより

(以下転載)

日本、中国、韓国・朝鮮……。

東アジア各国の関係は、ますます混迷をきわめている。領土問題にかぎらず、どうしてここまで仲が悪いのか。その本質は、歴史をたどらないかぎり明らかにならない。

このたび刊行が始まったシリーズ「東アジアの近現代史」(全6巻)は、東アジアのいがみあう現実の、歴史的な起源と形成過程をさぐり、問題の核心に迫っていく。

記念すべき第1巻『清朝の興亡と中華のゆくえ』より、すべてのはじまりとも言える秀吉の「朝鮮出兵」を扱った冒頭部を特別に公開!


すべては豊臣秀吉からはじまった

日本史上最大の愚挙――16世紀最末期、豊臣秀吉の朝鮮出兵のことである。

秀吉本人は「唐入(からい)り」、つまり大陸の征服をめざす壮挙だと誇ったし、またかつて戦前には、当時の大陸進出の魁(さきがけ)とみなして、賛美する声もあった。

しかし今の歴史的評価は、ネガティヴなところでおおむね一致しているだろう。日本人どんな立場であれ、大差はあるまい。

それでも日本列島では「朝鮮出兵」といって、なおニュートラルな称呼。それに対し、朝鮮半島では「倭乱(わらん)」と呼び、中国大陸では「万暦三大征」のひとつに数える。口にするだに否定的なニュアンスが漂う、といって過言ではない。

われわれ日本人も、それに何の不思議も感じなくなった。小さくは豊臣政権の崩潰(ほうかい)を招き、大きくは日本列島・朝鮮半島・中国大陸いずれにも、大きな災禍をもたらしたからである。残したのは、おびただしい人々の犠牲と怨嗟(えんさ)ばかり、まさに「愚挙」とよぶにふさわしい。

しかも「愚挙」は、たんなる昔話にはとどまらない。以後にも大きな影響をあたえた。目に見えるものばかりではない。われわれの必ずしも意識していないところにも及んでいる。

現在なお嶮(けわ)しい日中韓関係、「反日」の問題など、実はその典型である。

もちろん四百年以上の歳月を隔てるから、現代の局面と直接の因果関係があるわけでないし、誰も秀吉と現代を直結させて考えることはあるまい。しかし、目前のような日中韓相互の関係や感情の淵源を位置づけるなら、これより以前にさかのぼらせるのも不可能である。


「愚挙」の淵源と再現

史上最大、すべてがそこからはじまった、というゆえんである。

そうはいっても、いかに愚かであれ、行動を可能にする条件がなくては、愚挙は起こせない。そこには、物心両面の条件がある。

よく考えてみると、列島の人々が一丸となって大洋をおしわたり、半島・大陸に殴り込みをかけたのは、史上はじめてのことである。両者が武力で争った事件は、過去なかったわけではない。しかしかつての「蒙古襲来」は、向こうが海を越えて攻めてきたのであって、日本側は迎え撃つしかなかった。

ところが秀吉の時代は、攻守あい転じた。列島は三百年のあいだに、大軍が渡海遠征するだけの経済力・軍事力・政治力を身につけたことになる。

日本は戦国から天下統一の時代、生産力と人口を倍加せしめた大開発・高度成長のただ中にあった。史上最大の愚挙とは、増大の一途をたどったそんな力量の横溢でもあったわけである。

「朝鮮出兵」は確かに、秀吉の死とともに終止符を打った。けれどもそれで、何もかも終わったわけではない。まずその結果を前提に、以後の東アジアの歴史はすすんでゆく。いかに愚挙ではあれ、現実に起こってしまったことは、消してしまうわけにはいかない。

やがてその東アジアの歴史は、19世紀末・20世紀初、日清・日露の戦争を迎えた。日本は両次の戦勝を経て、半島を併合し、「満洲」に勢力圏を作ったから、秀吉の「唐入り」はいわば、三百年越しで実現したことになる。

中韓からする「反日」の前提も、これで定まった。


「唐入り」という発想

秀吉の「朝鮮出兵」が「近世」の日本をつくりあげた高度成長のたまものであったとすれば、日清・日露の戦役は日本の「近代」化の成果である。やはり力量の増大がその条件になっていることはまちがいない。

列島の発展は戦後もつづいて、なお経済大国の地位を保っているのだから、半島と大陸が警戒を抱くのも、その立場からすれば、無理もない話に思える。

そうみると、やはり疑問が浮かんでくる。なぜ列島の人々は、力をつけたら「唐入り」をくりかえしたのだろうか。

秀吉ひとりにかぎっては、愚挙でよいかもしれない。しかしそれに失敗し、愚かだと痛感したはずの列島の人々が、なぜあらためて「唐入り」しなくてはならなかったのか。

そこに至るまでに、長い時間を経過したのはなぜか。三百年のあいだに、いったい何があったのか。

疑義百出・回答不能の観がある。しかしひととおり見通しがつかないと、またぞろ愚挙をくりかえすやもしれない。

そもそも「唐入り」、列島が半島・大陸を凌ごうと殴り込みをかける、という発想そのものが、実は尋常ではない。列島の歴史・文明が半島・大陸からはるかに落伍したものであり、その国家・文化の形成が大陸・半島に多くを負ってきたことは、歴史の常識である。

そうした彼我の関係を自覚していれば、おいそれと「唐入り」という行動にならないはずなのだが、史上の現実はちがっていた。だとすれば、少し同時代のありようをながめる必要があろうか。


「国性爺合戦」

日本の近世は町人文化がいちじるしく発達した時代、最も先進地域だった上方(かみがた)が、いちはやくそれを開花させた。いわゆる元禄時代である。

その18世紀はじめ、エンターテインメントの花形といえば浄瑠璃、その代表的な作品に「国性爺合戦(こくせんやかつせん)」という戯曲がある。作者は希代のライター、近松門左衛門なのはいうまでもない。

「国性爺合戦」は明(みん)人を父に、日本人を母に持つ和藤内(わとうない)がヒーローである。そのシナリオは以下のとおり。

* * *

謀反人・李蹈天(りとうてん)が韃靼(だつたん)王と結んで、中国を統治していた明朝を滅ぼした。明の忠臣・呉三桂(ごさんけい)は皇子を救い出し、九仙山(きゆうせんざん)にかくまい、皇子の妹・栴檀(せんだん)皇女は海に逃れる。

平戸に漂着した栴檀皇女をみつけたのは、漁師の老一官(ろういつかん)。この人物は二十数年前、明帝の命をうけて日本に渡った鄭芝龍(ていしりゆう)である。日本人の妻をめとり、この地で暮らしていた。皇女と会った夫婦と子の和藤内は、明朝を復興するため、中国に渡る。

和藤内は腹違いの姉・錦祥女(きんしようじよ)の夫にして韃靼の将軍、甘輝(かんき)に協力を求めるため、獅子ヶ城(ししがじよう)へ向かった。その途上、竹林に迷い込んだ和藤内は、猛虎を退治したことで、狩猟に来ていて出くわした韃靼兵を手下にしてしまう。

和藤内が獅子ヶ城につくと、甘輝も錦祥女が死を賭した説得に応じて同心し、龍馬ヶ原で呉三桂と再会する。かくて一同は韃靼の討伐に向かって、南京(ナンキン)を攻撃した。ついに敵を倒し、皇子を位につけて明朝を再興したのである。

* * *

めでたし、めでたし、で終わるこの波瀾万丈の物語、正徳5年(1715)に大坂竹本座で初演があってから、17ヵ月の続演というロングランの記録を打ち立てた。

今も一部は、歌舞伎でやる演目だというのだが、藝能・演劇にうとい筆者は、ひととおり筋立てを紹介しながらも、そのみどころや縁起など、まったく知らないことばかり。

そんな朴念仁(ぼくねんじん)でも、わかることがひとつある。この物語が東アジアの史実をふまえたものだということである。

背後にあるもの

鄭芝龍・呉三桂は実名だし、和藤内の称号「延平王(えんぺいおう)国性爺(こくせんや)鄭成功(ていせいこう)」も、「国【姓】爺」をあえて違う用字にしてあるのを除けば、実在の人物であった。日本人の血を引いていたのも、事実である。

もとよりストーリーは、史実そのままではない。完全なフィクションといってよい。

しかし「鎖国」のもと、海外に渡航できなくなった日本人の血を引く英雄が、列島・大海・大陸を股にかけて大活躍する物語は、スリリングかつエキゾティックで、泰平の安逸に慣れた人々に大当たりをとった。

興行・エンターテインメントの評価としては、それ以上に何かつけくわえることはない。今日の、あるいは別の立場から、作品の品隲(ひんしつ)におよぶ必要もないだろう。史実にそぐわぬデタラメだとか、野暮なことをいうつもりもない。

ほんとうの史実は、本書でじっくり叙述する。いな、しなくてはお話にならない。フィクションたるゆえんは、そこで自ずとおわかりいただけるはずである。

ただここでそのフィクションを長々と紹介したのは、こうした話の作り方、またそれが受けた、というところに、当時の日本人のメンタリティ、物の考え方がよくあらわれているからである。それ自体、歴史として考えるべき余地がある。

判官びいき、貴種好みというのは、あるいは日本人固有の心情なのかもしれないし、おそらく今も共通することだろう。

同じ筋立てでみるなら、「韃靼王」という悪役、明朝の復興という大義。こちらがむしろ当時の価値観なのであり、ほぼ同時代の東アジアで共通したものである。

いわゆる「中華思想」「華夷思想」そのままであり、それを日本人、ふつうの庶民もまた共有していたのである。

「華夷変態」

庶民でさえそうなら、知識人はなおさらだろう。

「国性爺合戦」から半世紀前に出た本に、「華夷変態」と名づける書物がある。いわゆる「唐人風説書(とうじんふうせつがき)」を集めたものである。

「唐人風説書」とは、17世紀のなかばころから、来航する唐船の乗組員から中国情報を系統的に収集し、記録した江戸幕府あて報告書のことであるから、「華夷変態」とは要するに、海外情報の資料集成にほかならない。

では、なぜこんな名前がつくのか。この中国情報集成に「華夷変態」と命名したのは、幕府おかかえの儒学者・林春齋(はやししゆんさい)であった。延宝2年(1674)かれがしたためた序文の一節に、明朝が滅んだことを述べたうえで、以下のように記す。

韃虜(だつりよ)たる清朝が中原をわがもの顔に支配している。これは中華が夷狄(いてき)に変わりはててゆくありさまにほかならない。……最近、呉・鄭が各省に檄文をまわして、恢復(かいふく)の挙をおこしており、勝敗はまだわからない。夷狄が中華に変わってゆくということになれば、これはたとえ地域を異にしても、快事ではあるまいか。

「呉」は呉三桂、「鄭」は鄭成功一族のことをさす。まさしく同時代におこっていた三藩の乱・鄭氏の活動に触れたうえで、「韃虜」「夷狄」たる清朝がくつがえされる事態の招来を、異邦人・傍観者の立場から、欣快(きんかい)だと評した。

「華夷変態」とは、明朝・漢人の「中華」復権の願望を託した書名なのである。いかめしい儒学の教理とリラックスした町人の娯楽とのちがいこそあれ、「国性爺合戦」とまったく同じ着眼点・思考法だった。

それは「夷(い)」にすぎないはずの日本人が、自らを「華(か)」にオーバーラップさせ、明朝・漢人と同一視した、ごく自己中心的な心情・論理にほかならない。当時、自分こそ「華」であれかし、という考え方が風靡していた。

東アジアの秩序と清朝

ここに二つの論点が見いだせる。

ひとつは漢人を「中華」とする明朝以来の既成概念である。それはたんに頭の中の思想・理念だけではない。現実に機能した秩序として、存在しつづけたものでもある。

いまひとつは、第一とはやや矛盾しながらも、その「中華」概念が拡散していたことである。漢人の中国文化に深い敬意を払いながらも、もはやそれは漢人の独占すべきものではない。「夷」のカテゴリーにあるはずの朝鮮は「小中華」、日本は「日本型華夷」として、もはや本(ほん)中華への無条件の従属に甘んじるものではなかった。

あくまで中国を「中華」として尊重はしながら、それを自分にオーバーラップさせがちなのは、そうした心理・論理による。かくて潜在的な「中華」は、どこにでも、いくらでもありうる、というのが、「国性爺合戦」「華夷変態」の語るところである。

さらに時代をさかのぼって考えれば、「国性爺合戦」から百年をさかのぼる、秀吉の「唐入り」がすでにそうだった。日本が明朝を打倒、征服するというのは、いかに愚かしい誇大妄想ではあれ、華夷の上下秩序をくつがえすにひとしい。

華夷意識・中華思想における「中華」という自尊意識は、中国ばかりのものではなく、当時は東アジア全域に普遍的な思考様式となっていた。そんな秩序に必ずしも組み込まれなかった日本人すら、影響をうけ、理念を共有していたわけである。朝鮮・ベトナムなど、中国にいっそう近接する国・地域は、なおさらだろう。

もはや中国・漢人が「中華」を独占する一元的秩序ではない。そうした多元化の時代、東アジアに三百年の長きにわたって君臨したのが、ほかならぬ清朝だった。

忌むべき「夷」であり「韃靼王」に擬(なぞら)えられる清朝、しかし現実の歴史では、「国性爺」鄭成功が打倒を果たしえなかった清朝。

そんな清朝は、いかに時代の趨勢にこたえていったのか。多元化した「中華」は、いったいどこに向かったのか。その行きつく先には、いったい何があるのか。これが本書のモチーフとなる。


(転載以上)