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とくに記事への支持の意思表示ではなく、このような見方もあるという中立な立場にて記録とさせて頂きます。


テロ等準備罪が「現代の治安維持法」と言われることへの大きな違和感

現代ビジネスより

(以下転載)
テロ等準備罪が
「現代の治安維持法」
と言われることへの大きな違和感


「現代の治安維持法」と叫ばれるが…

2017年5月23日、テロ等準備罪(2006年の法案では共謀罪)の創設を内容とする組織犯罪処罰法改正案が、自民党、公明党、日本維新の会の賛成で衆議院本会議を通過した。民進党、日本共産党、社民党、自由党など野党は法案に反対。国会周辺には法案に反対する人々が集まり、批判の声を挙げた。

テロ等準備罪に対する批判の中には、この法案を戦前の治安維持法と重ね合せるものがある。4月6日の衆議院本会議では、藤野保史議員(日本共産党)が治安維持法を例示しつつ、安倍晋三首相に質問した。

「一たび内心を処罰する法律をつくれば、時の政権と捜査機関次第で恣意的に解釈され、萎縮効果を生み、自由な社会を押し潰していく、これが歴史の教訓です」

治安維持法は1925年に制定され、国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を取り締まった。主な狙いは日本共産党だったが、1928年と1941年に改正され、拡大適用された。取調や長期の拘束に苦しんだ人、特高警察の拷問で命を落とした人もいた。

治安維持法が「悪法」だったことは、まぎれもない事実である。

しかし筆者は、テロ等準備罪を治安維持法と重ねることには違和感を覚える。歴史に学ぶことは大切であるが、「歴史は繰り返す」と結論づけることには慎重であるべきだ。

以下、治安維持法の成立を中心として歴史を紐解きたい。


治安維持法はこうして生まれた

戦前の日本政府が社会主義者に対する取締法を調査したのは、明治末のことである。1910年には明治天皇の暗殺を計画した容疑で幸徳秋水らが検挙され、12名が死刑となる大逆事件が起った。この事件はフレーム・アップの面もあったが、社会への影響は大きかった。元老の山縣有朋は取締法の私案を政府に提出している。

取締法の策定が本格化したのは大正時代である。1917年にロシア革命が勃発すると、欧米諸国は急進的な社会主義運動や反政府勢力に対する取締法を整備した。また1918年には、国内で米騒動が発生した。

政友会を与党とする原敬内閣は各国の立法例を調査し、後継の高橋是清内閣が1922年、過激社会運動取締法案を帝国議会に提出した。

この法案は、無政府主義、共産主義その他「朝憲紊乱」にあたる思想を宣伝した者を処罰するのが狙いだった。政友会は「危険思想」の拡散を警戒し、取締法にも肯定的だった。

一方、ジャーナリズムや学者、そして野党は、文言が曖昧である、宣伝を罰することは言論や学問の自由を侵害する、として反発。野党憲政会に近い貴族院議員からも批判が出たため、法案は貴族院で修正され、衆議院で審議未了となった。

また、検察を管轄する司法省は法案を推進したが、警察を管轄する内務省は出版物や結社を裁量的な行政処分で取り締まっており、既存の法令と重複する新しい取締法に慎重だった。法案が挫折した背景には、与野党の対立や貴族院の抵抗、関係各省の不一致があったのである。

翌1923年に関東大震災が発生すると、第二次山本権兵衛内閣は、デマを原因に朝鮮人が殺傷されたことを受けて、風説の流布や流言蜚語を取り締まる治安維持令を制定した。この緊急勅令は拡大適用されるおそれもあったが、実際は慎重な運用が行われた。

1924年には、憲政会、政友会、革新倶楽部を連立与党とする加藤高明内閣が発足した。前年の1923年末には摂政宮(昭和天皇)を狙ったテロ――虎ノ門事件――が発生していた。

また、加藤内閣では1925年にソ連と国交を樹立したことで、ソ連のコミンテルンと国内の共産主義者の運動が活発化することが想定された。国内外に不安要素を抱えるなかで内務省と司法省は利害を一致させ、治安維持法を起草したのである。

同じく1925年に男子普通選挙を導入するにあたり、過激な思想を懸念する枢密院を説得するために治安維持法を抱き合わせたという面もあった。

加藤内閣は連立内閣として治安維持法の成立を支えた。実は与党内にも革新倶楽部を中心として法案に反対する議員がいた。起草作業が難航するなか、憲政会の若槻礼次郎内務大臣と政友会の小川平吉司法大臣は与党を説得し、内務省と司法省を調停した。

完成した法案は、思想の宣伝を直接には処罰せず、運動の拠点となる結社を取り締まる形式をとった。思想宣伝への対策は喫緊の課題であったが、過激社会運動取締法案の失敗を踏まえ、言論の自由に配慮した面もあった。

なお、首相の加藤高明は思想を取り締まることに消極的であり、ソ連と協定を結んで共産主義の宣伝を抑制することを提案していた。

治安維持法は帝国議会の審議を経て、1925年4月22日公布された。国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰するほか、協議、煽動、利益供与を処罰の対象とした。なお、自首した場合は罪を減免された。

内務大臣の若槻は法案の趣旨説明で、無政府主義や共産主義の実行を取り締まるものであり、労働運動には適用されないと説明した。

しかし、治安維持法は拡大適用されてしまった。一体何が問題だったのか。


拡大適用という恐怖

まず、国体や私有財産制度が何を指すのか判然としなかった。

衆議院でも、これらの文言は明瞭でない、と疑問符が付いた。国体は教育勅語に使用されてはいたものの、憲法や他の法律には存在しない。政府は、国体とは統治権(主権)の所在、つまり天皇主権を指すと説明した。ただし、天皇機関説で知られる憲法学者の美濃部達吉は、国体の文字を使わず統治権を説明していた。

また、治安維持法が成立した当時、日本共産党は解党状態であり、革命を目指す団体は存在しなかった。国内の適用第一号は学生団体であり、しかも協議罪が適用された。

拡大適用を決定づけたのが、1928年の改正である。同年3月の日本共産党検挙の結果、被疑者の多くが共産党に加入していないことがわかった。

田中義一内閣は緊急勅令で治安維持法を改正し、最高刑を死刑に引き上げると同時に、目的遂行罪を新設した。目的遂行罪は結社を支援するあらゆる行為が対象となり、警察の恣意的な運用を可能としてしまった。

以後の歴史は割愛するが、治安維持法の検挙者は1945年に廃止されるまで、国内だけで約7万人に上った。労働組合、宗教団体、植民地独立運動、社会主義者、自由主義者などに及び、国体変革など全く想定していない人々も対象となった。テロ等準備罪を懸念する声も、こうした拡大適用を踏まえてのものだろう。


二つの法律の類似点と相違点

治安維持法とテロ等準備罪は、どこが似ているだろうか。

第一に、特定の目的を持つ団体を対象としている。団体を規制するのではなく、団体に関与する人を対象とする点も似ている。第二に、国際的な要因(ロシア革命、TOC条約)が成立の背景にある。第三に、過去の廃案を踏まえて法案を修正している。第四に、連立内閣で提出されている。

それでは、テロ等準備罪と治安維持法はどこが違うのだろうか。

まずはっきりさせなければならないのは、治安維持法が槍玉に挙げた国体の変革と私有財産制度の否認は、政治体制や制度の変更であり、それ自体は犯罪ではなかった点である。

日本国憲法は明治憲法の改正手続に従って制定され、天皇から国民へと主権が移行している。しかし、治安維持法はそうした合法的な変更すらも禁止したのである。

法案の段階では、政体の変革も対象になっていた。政治制度や私有財産制度を改革するために、政党が憲法改正を準備することも違法となりかねなかった。衆議院では批判が相次ぎ、政府答弁にも揺れがあった。与党の修正で政体は削除されたが、政党、特に無産政党の政治的主張は狭められた。

これに対して、テロ等準備罪の対象は、犯罪の実行を目的とする「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」である。さらに、団体の行為として二人以上で犯罪を計画すること、犯罪を実行するために資金または物品の手配、関係場所の下見などの準備行為が行われることを要件としている。抑止の対象は特定の主張ではなく、特定の犯罪である。

もちろん、何をもって「組織的犯罪集団」と認定するのか、犯罪の計画をどのように立証するのか、準備行為をどの時点で認めるのか、といった論点は重要である(この点は国連特別報告者も指摘している)。

団体規制を行う破壊活動防止法とは異なり、団体を指定する手続は規定されていない。「組織的犯罪集団」のレッテルを張られることへの懸念もある。しかし、合法的な政策提案すら制限した治安維持法とは、やはり区別すべきだろう。

また、テロ等準備罪については、治安維持法と同様に恣意的な捜査を懸念する声がある。戦前の警察は、裁判所の令状なしに被疑者を拘束できる手段――行政執行法や違警罪即決例――を持っていた。

これらは治安維持法よりも前から、警察が裁量的に用いていた。そして1941年の治安維持法改正によって裁判所の令状も不要となり、恣意的な運用が合法化されてしまった。さらに拷問も行われた。

現行の刑事手続でも任意捜査は可能だが、強制捜査を行うには裁判所の令状が必要である。恣意的な運用や人権侵害が制度的に担保されていた戦前の警察とは、区別してしかるべきである。

もちろん、冤罪や自白強要はあってはならないし、恣意的な運用は厳しく戒められねばならない。自民党、公明党、維新の会三党の修正案は、著作権法などの親告罪はテロ等準備罪でも親告罪として扱う規定や、自白強要を防ぐために取調の可視化を検討する規定を追加している。

今後の国会審議に期待するのは、法案の個々の問題点を具体的に詰めていくことである。

1928年の治安維持法改正に際して、目的遂行罪は見過ごされてしまった。与野党はTOC条約締結の条件を探りながら、対象犯罪の絞り込みや構成要件の明確化、捜査の適正化を議論し、立法府の機能を果たしてほしい。成立した場合も、野党は将来の政権交代を見据えて法改正を準備すべきである。

最後に、あらためて戦前の歴史を振り返りたい。

昭和期の日本は、治安維持法が猛威を振るったのと同時に、組織的な暴力やテロが人々を脅かし、政党政治を委縮させた。二・二六事件では朝日新聞社も襲撃された。こうした右翼や軍人の直接行動に対して、治安維持法は全く機能しなかった。

健全なデモクラシーを育むには、主張を縛るのではなく、暴力や犯罪を規制することこそが必要だった。政党内閣が治安維持法を生んだのはまことに皮肉だった。

治安維持法に反対した石橋湛山ら言論人や政治家も、その多くは政治的な主張が制限されてしまうことを危惧したのであり、目的のために暴力や不法行為に訴えることは否定した。彼らには言論で戦うという矜持があった。

私たちにも言論という手段がある。権力に対して個人の自由を守ること、暴力や犯罪による威迫によって言論の自由が脅かされないこと。民主主義を維持するためにこの二つをいかに達成するかが、歴史の教訓である。