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亜細亜的大人 孫文



(以下転載)


革命の事績は後世の歴史家や政治家によって作られる。 
 学者および知識人と称せられる人達によって、何年何月といった年次をなぞることに無謬を論証し、月日が違えば記録や記憶そのものの信憑性が疑われるといったことにもなる。 
 あるいは、体制の正当性を唱えるがあまり作為的に変更、創作、解釈が行われることもある。ひどい例では事実そのものが消去され、虚飾に満ちた歴史が一人歩きする場合がある。 

孫文についても例外ではない。それは革命の目的となった理想に向かう志操を主な観点として見なければ本質は浮かんでこないということだ。 


◆革命は九十九回失敗しても  

幼少にあった孫文を感動せしめた事件は、洪秀全を頭目とした太平天国の乱であり、それを民族の問題として説いて聞かせた長老の言葉がその後の精神的躍動の出発点であった。年齢を追うごとに集積される体験的習得は、他人の観察にさまざまな評論を生むことにもなる。  

『本立って道生まれる』
という言葉がある。 

その意味は知識、技術を学ぶ以前にまず心身に浸透しなければならない人間探求というべ基盤作りが前提にあってこそその後に学ぶことが活きるということである。ややもすれば人間の頭に入った知識や技術が人間の欲望の為のみに使われるものではなく、自然界に現れる森羅万象を感動や感激をもって心身に受納できる箱が「本」というべきものでしょう。 

 そのひとつに幼少時に習得すべきといわれる『小学』という学問がある。 

 万物の中での人間生存の部分的役割りを、躾(習慣性)や道徳といった動物とは異なる人間性を自得する学問であり、他から教授されることにより長幼の別や、自分と他人の存在を認知することにもなり、そのことによって自分の役割を知り、社会性の芽生えとともに理想と現実の狭間から問題意識の高まりを可能にして、以後の行動の原点を確立する。 

佐藤は孫文から学んだ事として次のように語っている。 

難解な問題より、無垢な良心からものごとを観察して、なにが本当の問題なのか見つけなければならない。まず好きになれ。そして楽しくなくては学問ではなく行動もない」と言い、しかも「その行動の表れは、歴史の事象を分析したり、整えたりすることによって歴史を知識としてのみ分かるといった文献学や口耳四寸の錯覚した学問ではなく、事象の発生に必要な精神や思考の原点である『万人が心の秘奥で理解し、だれでも生まれもって保持している篤心をつねに錬磨する学問』を、行動として実践し実証することでもある。

孫文の革命は『小学』によって育まれた人間のあるべき姿を見つめ直し、放たれた良心に覚醒を促し、幼少のような無垢な感動、感激の存在を再度確認すべく起こした行動とみるべきだろう。 

歴史上、まれにみる純粋さが表現され、そこには老獪さや、したたかな計略もありません。孫文は困難を目前にして山田に語りかけている。 

革命は九十九回失敗しても、一回成功すればいいんだよ。失敗は恐れてはいけない。至誠は必ず通ずるものだ。明治維新と日露戦争の勝利はアジア復興の前段階であり、支那の革命はその結果となるものだ。

俗世でいう地位、名誉、権力、財力の追求はそこにはない。孫文は無頼漢を組伏せる体力もなければ、軍略戦闘の専門家でもなければ詐術もない。集積された名声はあるが、針小棒大な噂話として宣伝されたにしても革命頭領にはなれまい。 


それならばなぜ革命蜂起が可能だったのか。 


 孫文は、自らの行動によってその答えを明確に表している。それは、だれでも理解可能な行動を、だれでもできることとして具体的に見せただけなのである。 
 革命そのものを人間(人格)の問題として捉え、純粋にそれを追い求めたことは、異なる民族にも超越した共感となり、東洋の王道の実践者として多くの同志が身を靖献したのである。確かに、歴史の分岐点としての「時」と、日本から起こった改革に連動する「機会」や、人心掌握の「能力」と、アジア復興の「大局的意図」と、支那の権益を確保しようと日本との諸刃の剣というべき力の活用の「戦略」が革命の成功要素にあげるものもいるだろう。 
 しかし、それだけでは公(おおやけ)を説いての革命は成就しない。 

しかも、支那における何千年にわたっての政変は、一時の賛歌を得た支配者の末路を栄華没落の写し絵として、民衆の権力の見方や順応方法として、したたかに眺めることが生存の方便として染み付いているのである。 

 そのために民衆は『秘めた人情』といった心の潤いに生きる糧を求め、地縁、血縁、職縁に生活保全のもとを置きながら支配者と共生したのである。権力者や縁の異なるものに対しては虚偽と作戯をいとも自然に醸し出せるしたたかさをもつ大衆だからこそ、たとえ異なる民族であろうが人情を認めたものには誠心誠意、応え交歓できる社会を渇望したのだ。 


◆天恵の潤い 
孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。 

 1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。 
「如何したのですか」と聞いてみたら、

「頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。 

しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。


山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。 

 
日本に亡命して頭山さんの隣の貝妻邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。 
孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。 
あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。


 
加えて笑い話のようにこう付け加えた。 
 孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった 
 そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。 

 そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。 
 事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して"孫文"と署名している。 
 
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。 
 当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。 
 しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。 

 支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。  

 大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。 
 孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
 
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。 

「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」 

また、 

「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。 

 孫文の写真好きについても述べている。 


「香港へ向かう船上でのことだった。"山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう"と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」  

 
そして… 

「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。 
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は "孫さんストマックは逆ですよ "と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」 

 佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。 
 それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。 


 靖献(せいけん) 
   心安らかに身を捧げる 



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【ミニ解説】 孫文の遺言 
 余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。 
 現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳



(転載完了)