記録しています。2018/5/19wikipedia掲載
辛亥革命
辛亥革命(しんがいかくめい)は、1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、清(中国)で発生した共和革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。 この結果、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生した。
概説
清が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」とも称される。また民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された第二革命、さらには護国戦争が第三革命として続く。
辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
狭義では、1911年10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の宣統帝(溥儀)の退位までの期間を指す。広義では、清末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示す。辛亥革命の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回され、地権平等も実現しなかった。この革命はアジアで初の共和制国家を樹立し、古代より続いた君主政の伝統を終わらせ中国の歴史に画期をもたらした。辛亥革命により元号は改められ、民国紀元が採用された。
背景
国情
1840年(道光20年)の阿片戦争により、清は欧米列強と外交で対峙する必要に迫られた。一部官僚と知識人により1860年代から1890年代にかけて洋務運動が発生、欧米の知識を導入して殖産興業・富国強兵を目指す政治活動が提唱された。しかし、清内部の自発的なこの運動では北宋より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の改革は限定的なものに留まった。さらに、1894年(光緒20年)の日清戦争で日本に敗れた事で洋務運動の限界が露呈することになった。
これに対し、康有為を中心とする改革派は、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を維持しながら政治・社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い、1895年(光緒21年)、光緒帝の支持を獲得、1898年(光緒25年)に戊戌変法が実行に移された。しかし、急進的な改革は保守派の反発を招き、この改革はわずか103日で失敗、改革派は海外亡命を余儀なくされた。
1900年(光緒26年)に義和団の乱が発生、進駐した8箇国連合軍によって北京が占領されるという事態が発生すると、それまで改革に慎重であった保守派の間にも改革の必要性がようやく認識され、戊戌変法と同様の改革案が提出・実行された。1906年(光緒31年)9月1日には憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表した。1911年(宣統3年)5月には内閣が設置されたが、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、憲政移行を求める知識人の間に失望が広がった。
新軍編成
清末期には、八旗及び漢人緑営を主体とする清中央軍は実質的な戦力を喪失していた。太平天国鎮圧に際しては各地方の兵力に依拠し、日清戦争では旧式軍隊の落伍が顕在化した。清は軍事維持を目的に1901年(光緒27年)に陸軍の全面改革を実施、全国に新式陸軍36鎮を設置し、その内6鎮を朝廷直属とし他は各地方巡撫・総督の管轄とした。新式軍隊の幹部を養成するために各地に軍学堂が設置され、一部地域では留学生を軍官に積極的に採用するようになった。
反清思潮
清を構成する満洲人への反発は存在していたが、清中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢族の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満洲人排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満洲人排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などの革命勢力は、満洲族を満洲に追い出して漢民族の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢族の国家建設を目指そうとした[1]。しかし、辛亥革命後は革命スローガンも「打倒韃虜」から独立の動きを見せたチベット、モンゴルなどの少数民族を漢族の支配下に置こうとするために「五族共和」を唱え始めた[1]。
革命組織
辛亥革命は興中会(華南地区)、華興会(湖南地区)、光復会(蘇浙滬地区)及び後に成立した中国同盟会により実行された。この他共進会(長江流域)、文学社、同盟会中の丈夫団なども革命に関与している。中国同盟会は全国革命組織が緩やかに団結した連合体であり、同盟会会員は各地に様々な外郭組織を構築していた。
革命の代表的指導者には孫文、黄興、宋教仁、蔡元培、趙声、章炳麟、陶成章などが挙げられる。
政治主張
革命における主要な政治主張には清打倒と共和制政体の確立がある。1894年11月24日に成立した興中会は「満洲駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。また1904年2月15日に成立した華興会でも「満洲駆逐、中華回復」を政治主張とし、1905年8月20日に成立した中国同盟会でも「満洲駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を綱領に定め、民族主義、民権主義、民生主義が唱えられた。革命団体が一線で活動を行う際には清朝打倒と中華回復を強調し、民衆の中に反満感情を扇動して、清打倒に主眼を置いた。清崩壊後にどのような政治制度が採用され、どのような社会改革が行われるかについては、当時の活動家は清崩壊後に改めて考慮するという立場を採用していた。
革命気運の高揚
1890年代、多くの知識人が武力革命によって清を打倒し、フランスやアメリカのような共和制を確立していこうと唱えた。初期の革命思想の大部分は海外に居住する留学生や華僑青年によるものが多かった。また最初の革命団体もまた海外で組織され、1890年には楊衢雲を中心とする輔仁文社が香港で成立している。孫文もまた1894年11月24日にサンフランシスコで興中会を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始した。両者は1895年1月に香港で合併し、興中会の名称で活動を継続、同年10月26日には広州で初めての武装蜂起である広州起義を起こしているが、これは失敗に終わった。この事件により香港への入国が禁止された孫文はロンドンに活動拠点を移した。翌年には清による孫文誘拐事件が発生、国際的に報道されたことにより孫文の名が広く知れ渡ることになった。
1900年の義和団の乱で清の威信は失墜し、翌1901年に締結された北京議定書により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。1904年に日露戦争が勃発すると清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国満洲地区であった。外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、黄興が指導する華興会、陶成章及び蔡元培が指導する光復会を初め、江蘇の励志学会、強国会、四川の公強会、福建の益聞会、漢族独立会、江西の易知社、安徽の岳王会、広州の群智社等、各種団体が設立された。これらの革命団体は、相互に提携することは少なく地方色の強い個別運動であったが、清打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。当時は漢族による政権樹立が主眼に置かれたため18省での政権樹立を目指し、東北三省や新疆、チベット及び内モンゴルは当初活動範囲から除外されていた。これらの革命活動は反清を掲げる地下組織と提携する例もあり、華興会(湖南地区)は哥老会(英語版)と、光復会(蘇浙滬地区)は青幇と、興中会(華南地区)は三合会とそれぞれ密接な関係を構築していた。
1905年夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に東京にて中国同盟会が組織され、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『民報』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり胡漢民、汪兆銘が執筆。康有為や梁啓超が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。
この他の革命団体は下記の通り。
革命構成員
辛亥革命は帰国した留学生や知識人のみならず、各会派に参加した一般群集、海外華僑、新軍兵士、地方士紳や農民など幅広い出自層による革命であった。
新興知識人
新興知識人は海外で新知識を学んだ留学生と新式学堂で学んだ学生が主体である。科挙制度廃止後、清は西欧式教育を導入すると共に海外留学を奨励した。陶成章の提唱のもと、徐錫麟を初めとする多くの留学生が日本を始めとする海外で最新の軍事教育を受けて帰国している。
1900年代、清国では日本留学熱が高まり、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していた。日本で学ぶ留学生の周辺には革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で成立した際には90%以上の会員が日本で学ぶ留学生であった。また日本で軍事教育を受けていた同盟会会員による丈夫団も結成されている。日本留学した学生等は辛亥革命の中で大きな役割を果たし、指導者の孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲愷、朱執信、汪精衛等の革命指導者の殆どが日本留学の経験者であった。
結社参加者
清末期、各地で洪門(天地会)五房の長房青蓮堂、二房洪順堂、三房家后堂、四房参太堂、五房宏化堂または別の四川発祥の哥老会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼漢によっても構成され、地主士紳階層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。
哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては広東省由来の洪門二房洪順堂会派の致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清打倒に重要な役割を果たした。
海外華僑
海外華僑も辛亥革命の中で重要な役割を果たしている。海外華僑はそれぞれの居住地で同盟会に対する資金援助を行うと同時に、帰国後出身地で革命団体を組織、多くの武装蜂起に参加した。1894年11月、孫文がサンフランシスコで興中会を結成した際には20数名の華僑が参加している。また、黄花崗72烈士でも海外華僑が29名を占めるなど、少なからず華僑が参加している。
新軍兵士
1908年以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学者社長の蒋翊武を初め劉尭澄、詹大悲、王憲章、張廷輔、蔡大輔、王文錦などが当時の新軍内部のメンバーであった。
士紳及び商紳
1907年9月から10月、清朝は資政院及び咨議局を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。1909年、各省に咨議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙により咨議局に選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。
これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。
外国人
辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。
革命の準備
1895年から1911年にかけて興中会及び同盟会により合計10回の武装蜂起が実行された。これらの武装蜂起は短期間で失敗したが、革命思想を中国に普及させることにつながった。
第一次広州起義
1895年春、香港を中心とする興中会は第一次広州起義を計画、陸皓東により革命旗である青天白日旗がデザインされた。10月26日、孫文、楊衢雲は鄭士良、陸皓東を率いて広州に到着、武装蜂起による広州占拠の準備に入った。しかし計画は事前に清朝の知るところとなり、陸皓東は逮捕され命を失っている。「第一次広州起義」の失敗が宣言され、孫文及び楊衢雲は清朝の手配されるところとなった。香港当局は清朝の圧力により両名に5年間の入国を禁止、孫文の日本、アメリカ、ロンドン等への海外亡命生活が始まり、各地で革命の宣伝と活動資金の募金が行われることと成った。
恵州起義
1900年、義和団の乱が発生すると華北地方は無政府状態となったため、この機会に乗じて武装蜂起が計画された。6月、孫文と鄭士良、陳少白、楊衢雲及び宮崎滔天、平山周、内田良平などが横浜から香港に到着したが、イギリス当局により入国を拒否されている。9月25日、孫文は黒龍会の支援の下、馬関を経て台湾に移動、台湾総督府民政長官と会談し、台湾総督府の広州武装蜂起の支持を獲得した。孫文は台北市に武装蜂起司令部を設置、10月8日に孫文は鄭士良等に命じ恵州三洲田(現在の深圳三洲田)で武装蜂起を指示した(恵州起義、庚子革命、庚子首義、三洲田首義等)。決起軍の規模は2万人に拡大したが、台湾総督府官僚の態度が変化し、補給と軍人の参加の約定が覆されると、革命軍は物資補給に困窮し解散、間もなく清により失敗宣言が出された。この武装蜂起では史堅如、山田良政などが命を落としている。孫文は決起失敗後に日本当局により日本に移送されている。
黄岡起義
1907年5月、革命党及び三合会の許雪秋、陳蕓生、陳涌波、余紀成により武装蜂起が決行され、黄岡城(現在の潮州饒平県)の占拠に成功した(黄岡起義)。許雪秋、陳蕓生はシンガポール華僑であり、シンガポールで同盟会に参加していた。黄岡起義後、清朝は潮州総兵黄金福を派遣して武装蜂起を鎮圧にあたった。この結果、革命党員200名が殺害され、6日間で黄岡起義は失敗した。
第2回恵州起義
1907年、黄岡起義が発生するとそれに呼応すべく孫文は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示した。6月2日、鄧子瑜と陳純等少数の三合会は恵州から20里ほど離れた七女湖で清軍の武器を強奪、5日に泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退すると楊村、三達、柏塘等で清軍を撃破した。これに対し帰善、博羅、龍門各地の会党も武装蜂起に呼応、革命軍は200余名の規模となった。清水師提督李准は革命軍鎮圧に出動している。その後黄岡起義が失敗すると革命軍への支持が失われたため梁化墟にて革命軍は解散、一部香港に、大部分は羅浮へと逃れている。
安徽起義
1907年7月6日、光復会の徐錫麟は安徽省安慶で武装蜂起を決行した。徐錫麟は安徽巡警処会弁兼巡警学堂監督を務めており、学校卒業式の当日で巡撫恩銘を視察した後に学生を率いて革命軍を組織し、戦闘が開始されたが、4時間の激戦の末に革命軍は崩壊、徐錫麟も捕えられた後に処刑されている。
欽州起義
1907年8月、広東省欽州(現在は広西の那彭、那麗、那矺三郷で民衆反乱が発生した。孫文は会党指導者王和順を「中華国民軍都督」として連絡役とし、9月には欽州の占拠を計画したが失敗、王和順はベトナムに帰還している。
鎮南関起義
1907年12月2日、黄明堂は孫文の指導を受け入れ「鎮南関都督」の名目で中越国境の鎮南席砲台を攻撃した。孫文、黄興、胡漢民なども自ら砲台攻撃作成に参加している。広西提督調陸栄廷は4000の軍勢により革命軍を包囲、革命軍は山間部に退いた。鎮南関起義失敗以降、清朝は孫文等に対する捜索を安南に拡大したため、孫文はシンガポールに移動、武昌起義成功まで中国に足を踏み入れることはなかった。
欽州、廉州起義
1908年2月、黄興はベトナムを本拠地に200名の勢力により広東欽州及び廉州の計画、14日の作戦が行われた。
河口起義
1908年4月、雲南省河口での武力蜂起が計画され、4月30日に黄明堂がベトナムより雲南河口に侵攻、黄興も指揮に加わっている。しかし5月26日に清軍により河口が陥落すると一部の参加者はベトナムに撤退している。
庚戌新軍起義
1910年2月12日、黄興、胡漢民及び新軍内の倪映典は広州警察と新軍との衝突に乗じ、広州新軍を組織し武装蜂起を行った。しかし、戦死者100余名、逮捕者100余名を出し、100名以上の参加者が香港に撤退し、武装蜂起は失敗した。
黄花崗起義(第二次広州起義)
1910年11月13日、孫文はマレー半島のペナンに趙声、黄興、胡漢民、鄧沢如等を召集し、同盟会の行動方針を決定する会議を招集した。それまで会党が地方での武装蜂起を行ったが全て失敗した。革命の停滞期であったことから広州での武装蜂起を決定、清軍との全面対決方針を決定した。
1911年4月、趙声、黄興等は広州で武装蜂起を指揮、革命軍と清軍の間で激しい市街戦が展開され、軍事力に勝る清軍の前に革命軍は崩壊、武装蜂起は失敗した。
以下つづく