宣統帝退位
2月12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清皇室への優待条件を受け入れ、『退位詔書』を発布、清朝最後の皇帝、宣統帝の退位と袁世凱が組織する共和政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、1912年を元年とする無期限の民国紀元(中華民国暦)が施行された。
『退位詔書』は張謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は滅亡し、2000年以上続いた中国における帝政は終に廃止された。
袁世凱の臨時大総統就任
(袁世凱は北京で第2代臨時大総統に就任した)
宣統帝退位後の1912年2月13日、孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統就任を推薦した。2月15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都とすることを承認、3月8日には『中華民国臨時約法』を制定した。
3月10日、袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。
袁世凱は就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命者による各省の分離独立の動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対する主権承認交渉を行っている。
これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北洋政府」と称される。
1913年2月、『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙が実施された。選挙の結果は国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた。しかし3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。この暗殺の背景には袁世凱の指示があったことから[5]、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した(中華帝国)。
袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入した。
チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなど
チベット
辛亥革命に先立つ1906年から1910年にかけて、四川省の総督趙爾豊が、チベット東部地方一帯からラサに至る地域を制圧し、チベットの国主ダライラマ十三世は1910年、インドに亡命していた。
趙はカム地方[6]に西康省を設置し、また、「西蔵」[7]についても、ガンデンポタンを廃して建省しようと試みたが、1911年、武昌蜂起の報に接して、成都に帰還、革命派との抗争に敗北して死去した。
インドからチベットに帰還したダライラマ十三世は、チベットの独立を宣言し、中国の統治機構の一掃を指示、チベット軍はラサから中国軍を一掃したのち東進を開始、1蜀軍(=四川軍閥)に代わりカム地方東部に進出してきた雲南軍閥と激しい戦闘を繰り広げた。1913年からイギリスも参加して開始されたシムラ会議が始まり、停戦が実現するが、その後もチベットの全域の回復を目指すガンデンポタンと、中国の地方軍閥(アムド地方[8]の中央部を掌握するイスラム教徒の馬歩芳とその一族、アムド地方の東南部とカム地方の東部を掌握する四川軍閥、カム地方の南部を掌握する雲南軍閥)とが対峙する形成が続く。
以上
一部略省