wikiの辛亥革命から切り抜きましたが、じつに良くまとめており、備忘録へ記録しておきます。
今の洪門(ほんめん)には哥老会が侵入しており、自らが正統洪門と名乗る始末。とはいえ、彼らは本物の哥老でもない。


(文中より)
〜結社参加者〜
清末期、各地で洪門(天地会)五房の長房青蓮堂、二房洪順堂、三房家后堂、四房参太堂、五房宏化堂または別の四川発祥の哥老会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼漢によっても構成され、地主士紳階層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。

哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては広東省由来の洪門二房洪順堂会派の致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清打倒に重要な役割を果たした。


〜海外華僑〜
海外華僑も辛亥革命の中で重要な役割を果たしている。海外華僑はそれぞれの居住地で同盟会に対する資金援助を行うと同時に、帰国後出身地で革命団体を組織、多くの武装蜂起に参加した。1894年11月、孫文がサンフランシスコで興中会を結成した際には20数名の華僑が参加している。また、黄花崗72烈士でも海外華僑が29名を占めるなど、少なからず華僑が参加している。


〜新軍兵士〜
1908年以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学者社長の蒋翊武を初め劉尭澄、詹大悲、王憲章、張廷輔、蔡大輔、王文錦などが当時の新軍内部のメンバーであった。


〜士紳及び商紳〜
1907年9月から10月、清朝は資政院及び咨議局を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。1909年、各省に咨議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙により咨議局に選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。

これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。


〜外国人〜
辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。

(転載終了)