【禮】
礼。節操。分限。
人の根幹であり、自らの心より発する自発的規範。 部分と部分、部分と全体の調和・秩序を形づくるもの。
禮は、人の諸機関が自ずから調和して全体としてあるが如く、それぞれが己の分限を守って尽すところをいう。故に禮を失すれば、全体は調和を失い、人の体であれば変調をきたし、組織であれば系統が乱れ、物事であれば収拾がつかなくなる。
物事において節目を大事にするのは、節目が分限の最たる部分なるが故であり、その節目を掴んで操り、全体として調和に導くは、物事に対する人の禮である。
禮は示+豊。
示は神を祀る祭壇の形で多く神事をいい、豊は供え物の盛んなるをいう。
春夏秋冬、各々の節目で畏敬の念をおこして神を祀り、天に祈り、大地を踏みしめ、大自然に感謝し、“それまで”と“これから”を繋ぐ、それが禮である。
また、説文解字の示部には「履なり。神に事 へ福を致す所以なり。示に従ひ豊に従ふ、豊は亦た声」とある。
履は人が足で道をふみ歩く意とも、土地を得てその地をふむ儀礼の意ともされるが、いずれにしろ人が大地を履 む行為をいう。
人が履 み往きて忽 せにせざれば、それは遂には道となる。
その道は人が辿りつく術 となり、これを尽して神意に適い、故に自ずから福を致す。
福を致すとは、福が舞い降りるのではなく、自ら履 み往くからこそ自然に福となる、ということである。
現代的な意味での禮は、表面上の恭しさや規律・言行動作ばかりが強調されるが、そのような規定されたものは形式であって本質ではない。
禮の本質とは、素行自得であり、自己自身であり、いまそのときに心から自然と溢れ出るところのものを尽すことである。
、、、見せかけの【禮】は礼にあらず。
内から発した真言が重要なのです。「禮」は儒教が理想とする礼儀作法や礼節などの意味を含んでおり、そして禮は相手に求めるものではなく、相手から与えられるものです。与えられるにふさわしく、見合う自分を磨くことに真理があるのです。次世代はどんな「れい」になるのか、今からの楽しみでもあります。
★知人者智は自知者明なり
つづく