以下を備忘録へ記録します。

以下転載
※ 写真は他のネットより

《元サイト》



「アヘン戦争」から「辛亥革命」へ至る歴史の真実を学ぶ!!

中国革命の父と称えられる孫文は日比谷松本楼のお客様であったこと。松本楼は現社長夫人の祖父である梅屋庄吉は、「辛亥革命」遂行中に日本の亡命せざるを得ず各所に寓居していた。梅屋庄吉は、「辛亥革命」遂行中には私財を投じて孫文のために物心両面を挙げて支援をした。私財の総額は、今の金額にして約2兆円にも及ぶものと試算されています。梅屋庄吉は財を得るため香港の写真館を捨て、日本活動写真(日活の前身)の創始者の一人であった。

ここで少し歴史を振り返ることに。 

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1840年アヘン戦争勃発。イギリスは自国民に人気のあった中国製のお茶を中国から買っていたが、その見返りとして売る物が無く、貿易赤字となり、その穴埋めとしてアヘンを輸出した。

清朝政府はアヘン貿易を取締る当然のことをしたが、東インド会社の支援で近代兵器に武装したイギリス軍に敢え無く完敗した。1899年彼らに対する「義和団の乱」を起こすが鎮圧され、逆に莫大な賠償金を課された、全く理不尽な結果となった。

1911年彼らを倒すべく革命を起こしたのが紛れもなく孫文であり、今回の研修会のテーマである孫文の「辛亥革命」であり、それを支援した日本の梅屋庄吉のアジア人としての誇りであったのである。孫文と終世の友情を結び中国革命を支援し続けた。当時の日本のアジア主義者たちの歴史も検証してみよう。

孫文と終世の友情を結び中国革命を支援し続けた日本のアジア主義者たちは、日本を憂い、中国の人々とも確かな友好があったのである。

日本のアジア主義者たちは、たとえば

1. 宮崎滔天(みやざき とうてん)
2. 玄詳社の頭山満(とうやま みつる)
3. 黒龍会の内田良平

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東の日比谷松本楼、西の新宿中村屋これらは、文人たちが愛した洋食屋を訪ねてみよう!

大アジア主義者の拠点となったのが一方では新宿の中村屋である。明治末から大正、昭和にかけて、多彩な顔ぶれの文化人、知識人が集まった。

新宿の中村屋の創業者 相馬愛蔵、信州、安曇野の豪農の出身才女で妻の相馬黒光(そうま こっこう)と共に「文人サロン」を開き交流の輪を広げていた。

彫刻家の荻原守衛(碌山)詩人 エロシェンコ、高村光太郎らも、女優 松井須磨子らの大アジア主義者の知識人たちも出入りしていた。

相馬夫妻は、頭山満、内田良平らの頼みで辛亥革命の運動家である孫文、インド独立運動の大幹部ラス・ビハリ・ボーズの亡命生活を支援した。

このような日本国民による、正しいアジア団結主義の民族派、愛国派運動があったのです。イギリス政府に追われたボースは4ヶ月間、中村屋に匿われて、その時夫妻に紹介カレーは以来、中村屋の看板メニューとなった。

もちろん東の日比谷松本楼のカレーも今でも看板メニューは変わりがないのである。

中国の「辛亥革命」から歴史が大きく動いていく

辛亥革命の秘話。その後、アジア主義運動は思想的な排外主義(ショービニズム)へと転落してゆく。1840年 アヘン戦争勃発 清朝政府はアヘン貿易を取り締まることになった。イギリスはこれに激怒、宣戦布告して、アヘン戦争が始まった。この戦争はもちろん近代兵器で武装したイギリスが勝つのだが、これに対し義和団1899年にかれらに対する反乱(義和団の乱)1859年インドでも東インド会社に対する反乱が起きた。

義和団の乱が失敗して以降、清の上層部は再びルシフェリアンと結びつくが、1911年中国の秘密結社が彼らを倒すべく革命を起こしたのである。それが辛亥革命である。

このとき担ぎあげたのが孫文である。清を打倒した孫文は、ハワイ洪門会(*紅幇)であり、彼の呼びかけに応じて全洪門会が、この闘いに参じている。なお、(*青幇)安清会も連合し、中華共進会として孫文のもとに結集。

その後中華民国が成立したが、戦後内戦となったことで、大陸に毛沢東の共産党政権が成立した。毛沢東政権下の中国大陸では、毛沢東も孫文の偉業を否定できず、孫文の偉業を認めた。

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1912年に、孫文たちは中華民国を設立する。その後、中国大陸の毛沢東と台湾に逃げた蒋介石に分裂したのである。

日本人はアジア人としての誇りを持とう!

結びに明治維新に生れた庄吉は西欧列強の植民地支配、「不平等条約」に束縛されていた日本を西欧列強の制約から解放して「眞の独立」を勝ち取らなくてはならないと考えていた。日中友好の秘話「梅屋 庄吉と孫文」の講演研修会で講師、小坂哲瑯氏の歴史の真実を直接お聞きすると私たちの歴史認識の情報とのズレを感じました。 

国父孫文と梅屋庄吉の友情の歴史を偲んで、 重鎮、中国胡錦涛国家主席を囲んでの福田前総理主催夕食会、中国革命の父と称えられる孫文は日比谷松本楼のお客様であったことなど。梅屋庄吉は、「辛亥革命」遂行中に日本の亡命せざるを得ず各所に寓居していた孫文を支援した功績。 梅屋庄吉は、孫文に「先ず、君は兵を挙げよ、我は財を持って支援す!」。

 梅屋庄吉は、「辛亥革命」遂行中には私財を投じて孫文のために物心両面を挙げて支援をしたこと。 私財の総額は、今の金額にして約2兆円にも及ぶものと試算されています。 梅屋庄吉は財を得るため、香港の写真館を捨て、日本活動写真(日活の前身)の創始者の一人であった。国父孫文と梅屋庄吉の友情の歴史を偲んで、福田前総理主催夕食会が中国胡錦涛国家主席をお迎えして2008年5月6日に日比谷松本楼にご来店記念夕食会が開催されことはこれからの日本に取っても最も重要なアジアの一員としての責任を私たち国民が日本人の誇りと自制心をもち生きていく必要性を肌で感じました。 梅屋庄吉こそが眞のアジア主義者であったのだと思う。  
   
(小金井南支部  高橋俊雄) 


転載以上。