小林です。


「人の己れを知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。」

(ひとのおのれをしらざるをうれえず、ひとをしらざるをうえうるなり)


これは、論語学而(がくじ)第一の十六の一文です。


漢文は、子曰く【不患人之不己知、患己不知人也】です。



論語とは、簡単に言いますと、孔子とその弟子、門弟が互いの意見をやり取りしたときのことを記したものです。儒教の聖典とされており、数回ブログ内でも取り上げていますが、今から二千年前に生まれ、今日(こんにち)まで、思考や信仰の対象にもなっております。



そしてこの論語の意訳。



人が自分のことを正しく理解してくれないことを思い悩んでもしかたない。
それよりも、自分が人を正しく理解していないことを心配すべきである。


文の前半、【人の己れを知らざるを患えず】。誰でも自分を認めて欲しいという願望があります。成果や結果を出さなければいけない世の中で生き、人と人は競い合い、時には憎しみ、または悲しみをも生み出してしまいます。昨今の競争社会ではより強い願望として人々の心の中にあるものです。


「いいえ、そうではないよ。」と諭してくれる後半、【人を知らざるを患うるなり】。自分を認めて欲しいばかりではなく、先にまわりの人たちの優れた能力や価値を認めべきだと諭しております。



最近、耳にした一つの例がありました。



その男は、冴えないし目立たず、見た目も少しおかしさを持ついわゆる現代で言うところの「イタイ系」です。勤めている会社などでも社内でどちらかと言うと、「笑われる側」にいました。男はそんな世間を見返してやりたいと、催眠術や気功術を習い始めます。


この男を「H」とでも呼びましょうやがて「H」は一人の絶大な力を秘めた人物と出会います。


この人物は、男の奥にある「誠実さ」を見つけ出します。そして冴えない「H」を持ち上げることにします。


「H」は見た目があやしかったので、革靴を買ってあげたり、ネクタイや身に付けているものをあげたり、慣れないお食事の場を共にしたり、一般人が会えそうもない人々や場所に連れていき、「H」の自意識の向上に努めました。

そして、元々「H」は催眠術や気功術の基礎を学んでいたので、人物は背後にまわり、自分自身の身を削り、「H」へ自分の秘めた力を与えていきます。しかしながら、そもそも学び始めた理由が「女性にもてたい」だったため、諭すのに時間がかかりました。


やがて「H」は、人物の力を受け貰い、気功の講習会を開き、まわりの人の協力も得ながら、参加者が一人、二人、三人と増やしていきました。そして多くの人々と出会い、仲間を作り上げていきます。


むろん「H」は、もっと向上したいとあれもやりたいこれもやりたいと欲望が先走りします。人物は、先を急ぐことではなく、一歩一歩着実に進んで欲しかったのでしたが、けれども、「H」はまるで子供が欲しかったオモチャを渡されたときのように、遊びたいがために、人物の言うことを聞かず、さらには理解しようともせずになり、逆に自分は束縛されていると思い、人物から離れていこうとします。


この人物が一番許せなかったことは、「H」は貰い受けた力を使い、また女性を対象に「術」をかけたことでした。幸い、一人の女性は自意識が強く、ストーカーをされていると他の人を通して、人物に嘆願をしてきたために、事が発覚し、警察沙汰の一歩手前で人物の力により事なきを得たのでした。


でも、さらに「H」は、まわりに集まってきた人々に除霊やら降霊やらと行ない、まだまだ未熟な術しか扱えないのに、他力本願をし、そしてまた特定の女性に術をかけたのでした。(馬鹿さ加減は治らないもので)この特定の女性は、輝きを持つ素晴らしい光を持っており、でもまわりの人々の次元が低いためか「術」が掛けられていることを知らずに、女性は良い未来を手放してしまったのです。人物は女性を救い上げたいのですが、まわりの人々も目覚めない限り難しいでしょうね。



というお話を聞き、ふとこの論語を思い出したのです。



皆さんも自分のことばかりで他人のことを知ろうとしないのではなく、感謝の気持ちをいつまでも忘れず、口ばかりの感謝ではなく、素晴らしい人生を掴んで頂きたいと思いますね。そして、大分前から同じことをお伝えしておりましたが、いまの世の中は皆が「ボス」に成りたがっていますが、時代は「リーダー」を求めております。心身共々、立派な「リーダー」になっていき、そしてそこから新しい「リーダー」をまた育てていってください。






立ち止まりまわりを見よ。




ではまた。






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