皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、という説を聞いたことあるだろうか?それらは根も葉もない虚説である。
以下の根拠を上げる。
まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。
陰謀論者が明治天皇として広めているこの写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。
伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。
伏見宮邦家親王は孝明天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形になっており。明治天皇の皇女は、次々と伏見宮系の王子の妃となられている。
皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す準備をしてたのは明らかであり、中山忠能や摂政の二条斉敬など、孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを支持した人物はいないばかりか、孝明天皇の信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。
顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。
このような状況下で明治天皇をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。
尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。
それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。
そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、それをすり替わったとする天皇が認める訳もない。
当時の明治天皇は14歳の成長期である。成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。
それに明治天皇は御所言葉をお話になられており、御所言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。
陰謀論者はフルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うがフルベッキ写真が明治維新の立役者が全員そろった写真であるという奇説は、それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。
さらに、東京歯科大学法人類学教室の橋本正次教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。
「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。
明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、光厳天皇から後円融天皇までの5代5人を北朝として正統から外したが、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等においては天皇として扱われている。
明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであり、そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した明徳の和約までを否定するものではない、したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。
南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。
第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。
以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。
虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。しかるに、「君臣豊楽」、「国家安康」の故事を引くまでもなく、政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。かの太閣殿下の堅牢な大阪城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。
仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。
1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕
明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。
大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。
1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。
1889年 皇室典範 永世皇族制を採用
1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕
1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕
1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕
1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」
1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚
1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚
1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚
全て伏見宮邦家親王の系統の王子。
1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕
1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」
宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年~1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。
当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。
事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。
そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。
大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。
『中山忠能日記』の真実 『中山忠能日記』慶応三年 七月十九日
謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事
※これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記した文献をすり替え説の根拠にするなんて無茶苦茶前段の留め書き・箇条書きを繋げて奇兵隊天皇などとは文脈から読めない
謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事
一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが
『神皇正統記』巻一 「我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」
http://bit.ly/2l55gnW 神皇正統記には、「傍系継承によって皇統は保たれてきた」とあり、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。
現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが
北朝側の立場から描かれている史料には
『梅松論』 「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。
"最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。"一方、『太平記』には『太平記』「舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。」...「古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。」http://bit.ly/2lUOPMj『梅松論』『太平記』敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然であり、何ら不思議はない。
『神皇正統記』巻一
http://bit.ly/2l55gnW
後南朝の真実田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。
『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記 後南朝の皇統(川上村伝承) 後南朝は滅亡しています。『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」
「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」http://bit.ly/2l5cCHN
後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等々以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。
「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」
フルベッキ写真は佐賀藩の藩校「致遠館」の学生がフルベッキとともに撮った写真であり西郷隆盛らは写っていない
「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒
2013年04月24日読売新聞 東京朝刊 文化 27面「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。」
古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。
加治将一「西郷の貌」の問題点 元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」テリー・ベネット「Early Japanese Images」 この写真に西郷隆盛・従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。
「オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。
島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
「島津久治公一行」の写真に写っている「床次正義」の家紋は西郷家の「菊」ではない。
実際に西郷に出会った絵師による西郷隆盛の肖像
服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)
西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。
伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。
西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。
キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。
実際に西郷に出会った絵師による西郷隆盛の肖像
服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)
西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。
伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。
西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。
キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。
上野の西郷象の公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。
「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」wikipedia.org/wiki/西郷隆盛像つまり、上野の西郷象の風体、 正装ではなく浴衣で着流しという だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意なのだ。
上野の西郷象の公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。
キヨッソーネの西郷の顔を参考に地元 鹿児島市出身の安藤照が8年をかけ製作した鹿児島の西郷隆盛銅像
元山形県議会議員の石澤宏太郎氏
キヨッソーネの西郷の顔を参考に作られた鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって顔の直接的なモデルではない。
キヨッソーネの西郷の顔を参考に地元 鹿児島市出身の安藤照が8年をかけ製作した鹿児島の西郷隆盛銅像
元山形県議会議員の石澤宏太郎氏
キヨッソーネの西郷の顔を参考に作られた鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって顔の直接的なモデルではない。
ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛
※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。
※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy
研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe
ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛
※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。
※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy
研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe
自称「大室天皇」の誕生「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、その場で逮捕される。大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、現在同容疑者に余罪があるものと追及中。今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」
熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき
大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904~1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。
「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。
その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」
大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904~1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。
「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。
その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」
陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。
鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。
そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。
太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2009年5月19日腹膜炎のため死去。
鹿島昇とは、「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました
大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされませんでした。
しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。」
鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り合い、韓国の20世紀に作られた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。
他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。
1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が
睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。
もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。
松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、ことに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」
http://bit.ly/2ltuGw6
『 韓国と日本の歴史 』について
http://bit.ly/2lgWem2
このような認識の在日朝鮮人や共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。
陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。
鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。
そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。
太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2009年5月19日腹膜炎のため死去。
鹿島昇とは、「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました
大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされませんでした。
しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。」
鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り合い、韓国の20世紀に作られた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。
他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。
1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が
睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。
もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。
松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、ことに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」
http://bit.ly/2ltuGw6
『 韓国と日本の歴史 』について
http://bit.ly/2lgWem2
このような認識の在日朝鮮人や共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。
明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。
血統妄想 [ Descent delusion ]
血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。 血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。 |