備忘録へ記録します。
(以下転載)
◆孫文に生じた対日観の二重性
革命のさなか孫文は、幾度となく訪日し、永いときには2年数カ月にわたり滞在している。革命期間の三分の一を日本及び日本人とのかかわりの中で、期待と失望のときを費やしている。それは、ある意味で対日観の二重性を生じ、矛盾した言動とみられたこともある。
その間、財閥、政治家らの対支那利権に翻弄されたり、日本国内の政治状況に左右されたりしたこともその要因であり、もちろん支那の国内事情のなかでの大きな障害であった袁世凱の動向が日本の対支那政策にあたえた多大な影響と、アジアに対する遠大な志操や国策もおぼろげな日本の指導階級の見識不足がその混乱を助長させていた。
孫文自身も現実の支配者、袁世凱の勢力および力の認識とともに、他方、中国鉄道督弁として、その計画遂行の先駆者としての理想追求の狭間に活路を捜し求めた時期があった。革命指導者に重要な現実認識と能力査定、そして将来の推考という平衡感覚は、つねに冷静な客観視がなければできないことだ。また革命の大義というべきものの裏付けも重要なことでもある。
13歳から5年間にわたる西欧的環境での生活は、現在の東西価値混交とは違い相当のギャップとして、あるいは理解の端から感動感激として染み付いている。
思春期の影響は、より一層アジアの混迷を際立たせ、その自覚のもと支那人孫文として、背景にある文明の違いと優位性を明確に唱え、アジア民族の奮起を促している。その一歩は列強によって分断されたアジアを、日本の力を梃子に再興しようとすることでした。
しかし日本の近代化は東洋的観念から逸脱し、西欧の模倣こそがその目標とばかりに邁進し、維新の原動力だった列強への危機感をあえて衰弱するアジアに対して矛先を向けたのだ。その意味で西欧スタンダードというべき近代化の基準に対して、孫文は日本に繰り返しアジア基準の再考を促した。その意志は、現代にも当てはまる問題提起である。アジアの西欧に対する功利覇道的考えの懐疑をみれば、東西ダブル基準の明確化と調和を唱えた先見性でもある。
◆犬養毅宛の孫文書簡
孫文は1923年11月に犬養毅宛の書簡を山田純三郎に託している。三日三晩を費やして作成した書簡は、妻、宋慶齢の助力によって幾度も読み返され、訂正され、孫文の対日意志の集大成となるべきものであった。
山田の甥、佐藤慎一郎は未修正の原文を渡され、修正後の文章とともに翻訳している。
山田は言う。
孫さん最後の書簡は犬養さん宛のものだ。最後の書は船上で自分に託した『亜細亜復興会』、最後の演説は神戸の女学校での『大亜細亜主義』を唱えたものだ。全てが日本および日本人に向けられたものだ。
そして孫文は口癖のように
『あの明治維新を成し遂げ、西洋の列強との戦いに勝った日露戦争は亜細亜の抑圧され、虐げられた有色人種が日本をアジアの光明として迎えたものだ。私もそれに感動し、触発され革命を蜂起した。しかし、その日本はことごとく我が国の革命の障害となっている。日本には真の日本人がいなくなった』
と嘆いていた。
だが一方では期待をもっていた。日本の満州経営とロシアの南下について語った桂太郎や兄・山田良政との縁で革命に助力した後藤新平、命がけで孫文の上陸を扶けた頭山満翁と犬養毅、神戸造船所長の松方幸二郎、そして兄・良政をはじめとする朝野、在支那の同志たち。そんなアジアの中の日本を自覚した真の日本人がいなくなった。
それは孫文の指摘を待つまでもなく、歴史の経過とともに衰退する人間の徳性資質そのものの問題でもあり民族を越えたアジアの行く末を暗示するものであった。
識者、景嘉は清朝の知識人梁巨川の遺稿録でこう述べている。
…世界で発生するあらゆる問題、国際間で起きるあらゆる問題、および一国、一家に生ずる一切の問題は、実は人の問題から切り離せないということである。
そして人の問題とは、とくに東洋の伝統が主張する人格の問題がとりわけ重要である。人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負と己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を従わせることの不可を、心の深奥な所で反省することである。…
数百年にわたって満州族の清朝に支配された漢民族の嘆きか、反骨かととらえられなくもないが、事象の根幹に人間が介在するものであるなら、まず人格識見の涵養が重要だと説いている。
西洋の覇道と比し、東洋の王道の優越性を唱えた孫文の意志である。しかも、感動と感激を通じて学び実践しなければならないと景嘉は続ける。
もちろん孫文は革命の成就が日本の政策いかんにあると断定しているのではない。期待のあまり、その大局的なアジア観や、抑圧された民族から期待され増幅された救世主となった日本に、反面批判と警鐘として唱えたのだ。
…貴国の対支行動も、従来は列強の鼻息を仰いで、中国および亜細亜州の各民族を失望させていることは非常に失策でありました。
このたび、先生が入閣されましたので、必ずや列強追従の政策をやめ、新たな旗印を樹て、亜細亜州の各民族が渇望している気持ちを慰めていただけるだろうと思います…。
犬養さんに出した文章にはないが佐藤が山田から預かった原文にある文章を参考に記すと。
もし、そのようなことになるならば、日本はその増加する人口を容れる拓殖の地がないということなどは、心配する必要などないでしょう。私は、南洋の島々および南アジアの各国では、必ずや日本をその救い主として歓迎することになるだろうことを知っています。
もし日本がアジア民族を扶けることを志として、武力的な欧州帝国主義の動きに追従することを止めるならば、アジア民族は日本を敬慕し、崇拝しないということはないでしょう。
最も重要で、列強の競争に関すること、最も激しいのは支那4億の人々です。列強の中にはこれを独占しようとした者があったのですが、他の強国に阻まれ、ついには支那分割を謀る者が現れるようになったのです。図らずも、たまたま、東亜の海の果てで立ち上がったため、その分割の謀も遂行することができませんでした。
この時、支那4億の民とアジア各民族は、日本を救い主と見なさない者はなかったのです。しかしアジアの民衆の期待とは異なり、日本には遠大な志と高尚な政策はなく、ただ武力的な欧州の侵略的手段を知るだけで、ついには朝鮮を併合する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことでもあります。
『その心を得る者は、その民を得、その民を得る者は、その国を得る』といっています。そして、それを翻然として悟り、異民族を遇する度量と勇気がなければ…アジアの人心は必ずや赤露に向かって行くことでしょう…アジアには弱いものを救い、傾いているものを扶けようと、義によって言論を主張する国はないのです。だからして赤露に望みをかけざるを得ないのです。
戦争について
そもそも将来の世界戦争はと、言うものの多くは、必ず黄色人種と白色人種の戦いになるとか、あるいは欧州とアジアの戦争であるとか言っておりますが、私はあえて、それは違う。それは必ず公理(一般に公認される真理、道理)と強権の戦争であろうと断ずるものです。
列強については(犬養書簡にない原文より)
欧州においては、ロシア、ドイツが虐げられているものの中堅であり、英仏および米国は、あるいは横暴者の主流ということになりましょう。アジアにおいては、インド、支那が虐げられている中堅で、横暴者の主流は、また同じく英仏、米国であり、あるいは横暴者の同盟者となるか、あるいは中立の立場をとって、必ずしも虐げられているものの友人とならないことは、断言することができます(日本を暗示)。
ただ日本は、まだ未知数の立場にあり、虐げられているものの友となるか、それとも虐げられているものの敵となるかは、先生が山本内閣において行うことができるか否かによって定まることと思います。
このことがかなうなら、将来の世界戦争に準備しなければと説いている。
◆孫文が説く日本のアジア外交の指針
佐藤慎一郎は、時節が流れようと孫文が説く日本のアジア外交の指針は、現代日本人が錯覚した歴史観では、到底答えが出ないとおもわれる問いに啓示として映るという。
列強は支那をもって日本を制し、必ず日支親善は永久に期待できないようにさせ、しかも日本経済は必ずや再び発展することは難しくなることでしょう。欧州列強は、大戦以来すでに帝国主義を東亜に推行する実力はなくなりました。しかしながらその経済基盤が支那にあるものは、すでに非常に強固なものとなっています。
それで、もっとも心配なことは、わが党の革命の成功は、彼らに不利をもたらすことを恐れているのです。
列強の深謀遠慮は実に日本を目標としています。 だから色々な名目を作り出して、日本が彼らと一致した行動をとって、支那に対せざるを得ないように、させているのです。日本の支那における関係は、その利害はまさしく列強とは相反していることを知らないのです。およそ対支那政策で列強に有利なものは必ず日本に害があるものです。
日本の致命的な政策的習慣を指摘して
アジアの将来を推考して
(草稿では)
思うに支那革命がいったん成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータン等の諸国は必ずや、もとのように中国の藩屏として付属することを願うでしょう。しかも印度、アフガニスタン、アラブ、マライなどの諸民族は、必ず支那の後塵を歩み、欧州を離れて独立することになるでしょう。
…このようなことになると、欧州の帝国主義と、経済侵略は必ず失敗することになるでしょう…。
ところが日本政府はこのことを察する事なく、これに引きずられて反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
もともと明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。 それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は同じことなのです。
日本はどうして欧州に追従し、我が国を嫌い、我が国を害するのでしょう。日本が国家万年、有道の長期基本計画のために、もし支那に革命の発生がなかったならば、日本は提唱してこれを誘導すべきであることは、ロシアが今日、ペルシャ、印度に対しているようなものです。
従来、徹底的に自覚して、毅然決然として支那革命を助け、日本を東亜に立国するものとしての雄図を計ったことは、いまだかってありませんでした。これは独り支那のための計略ではなくして、日本のための計略でもあるのです。
この書簡には日本の対アジア政策の曖昧さを指摘し、抑圧民族のおかれている状況に目を転じ、理解を促し、その結果、赤露に向かわせる理由を説明している。そこには、1906年(明治39)ロシア革命の領袖ゲルショニと牛込で行った会談とは異なり、孫文の対ロシア観の変化がみられる
。
◆孫文が描いた満州経営の展望
ゲルショニが中国革命成功の暁にはロシアの革命を援助してほしいとの答えは「万里の長城以北は関知しない」ということだった。
当時の孫文の意識の中には万里の長城以北は漢民族の勢力圏ではなく、対ロシアの間断地帯として日本に地域建設を委ねつつロシアの南下を押さえるといった考えがあった。歴史上、軍部の独走や満州建国という面が強調されているが、戦後の発掘資料や山田純三郎の証言にある武器や資金の援助と引き換えに三井財閥の森恪による買収計画や、下田歌子と会談での同様な話とは別に、孫文自身が当時描いていた極東アジア、満州地域の考え方は革命成功のための一過性の約束とは異なった日中提携をもとにしたアジアの将来展望であったはずだ。
頭をもたげた日本の偏狭な権益主義は世界の中のアジアという観点を考慮することなく、支那の歴史上、希有な指導者の提言に耳を貸すこともなく、逆に誠実な心を終始、落胆させる政策をとった。
近代のアジアは狭い範囲の思惑に一喜一憂し、恩讐まで積もった日中両国の分断を意図する西欧列強の画策に翻弄され、その影響を受けるアジアの混乱はいまもって続いているのが現状である。一時期の政策的失敗による衰えはあったにしても日中が胸襟を開いてアジアの大経綸を描けるとしたら「世界史上稀にみる一大勢力になるだろう」ことを孫文は予言している。
それは後に述べる桂太郎との会談の一部を山田が語っていることでもわかる。
当時は地政学的にも南下政策を唱え、民族感情からいっても「大鼻」(ダービー)といって好感情を抱いていない中で、なぜロシア寄りの考えを書簡で伝えようとしたのか、受け取り方によっては、犬養を縛り、自らを窮地に追い込む政策の披瀝は、まさに政治家としての孫文のロシアカードであり、ボロジンを代表とするロシアの対支那政策の効果とみることもできる。犬養ならずとも親露容共の考えをどのように判断したらいいか苦慮するだろう。
それは以前、大正2年に来日したおり、神田青年会館における留学生の歓迎会の席上で、国際情勢を分析してこう述べている。
「今はロシアと親善すると蒙古がやられてしまう。それでもさらにロシアに近づくと中国国内18省はやられてしまうだろう…」(国父全集3巻114頁)
このように当時、袁世凱が結んだ中露協約や親露防日政策を批判している。
書簡では続けてこう述べている。
日本の立国の根本は、ソビエト主義とは同じではない。だからあえて承認することはできないのだから、といいますが、これは真に見識の狭い議論です。そもそもソビエト主義とは孔子のいわゆる
『大同』
なのです。
孔子は、大いなる道が行われていたころには、天下は公となし、私するようなことはなかった。賢いものを選び、有能な人を用い、人は互いに信じあい、憎しみ合ったことはなかった。 老人は安らかに生涯を終えることができ、若者には十分活躍する場所があった。幼いものはすくすくと成長することができ、老いて妻もなく、また夫のないものも、幼いとき父がなかったり、年老いて子の亡い者も、不具廃疾のものも皆それぞれ生活して行くことができた。
男には分に応じた職業はあるし、女には何れも配偶者があった。財貨は地に棄てられて粗末にするようなことはしないが、必ずしも自分のためにだけ力を用いるようなこともなかった…。したがって策謀する必要もなければ、泥棒や乱賊などの横行する余地もなかった。だから表通りの戸締まりをしておく必要がなかった。
このような社会を大同といっています。だからロシア立国の主義は、これほどのものでしかないのです。なんで怖るべきことがありましょう…。
歴史を推考し先見としてこう唱える
…日本を排斥する強国がロシアをその先駆けとして利用することになれば、独り日本が危ないだけではなく、東亜もまた、それにつれて平和な日がないようになるでしょう。そうすれば、公理と強権の戦いは、もしかしたら、ついには日本では黄色人種と白色人種との戦争と変化するようになるかもしれないのです。
是非とも知っておかなくてはならないことは、欧州大戦後の世界の大勢は一変したばかりではなしに、人の思想もまたそのために一変したのです。日本の外交方針も必ずこれに順応して改革してこそ、はじめて世界における地位をよく保存することができるでしょう。
さもなくば、ドイツの仕損じたことを、必ずまた踏むことになるでしょう。試みにご覧なさい。ホノルルの軍事配置、シンガポールの設備を。これは誰を目標としているのでしょうか。事態はすでにここまで来ているのです。
日本が、なおもロシアを与国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の挟撃をうけるでしょう。英米の海軍はすでに日本より強いこと数倍です……。孤立している日本が海陸の強い隣国に当たったとしても、どうして僥倖を期待することができるでしょうか。だから親露は日本自存の一つの道なのです。
最後に、こう結んでいる
この策は、実に日本が国威を発揚し、世界を左右する遠大な計画であり、興廃存亡のかかわるところなのです。これは日本が欧州対戦の初め、すでにその赴くところを誤り、世界の盟主となる良機を失ったのです。一度誤っているのに、どうして二度も誤ることが許されるでしょうか。ただ、先生(犬養)が詳細にお考えくださって、速やかに対処されるようお願い申し上げるのみです。
民国12年(大正12年)11月16日 広州にて
孫文から託された書簡は山田によって直接、犬養に届けられている。
翌、大正13年11月、広東へ帰ろうとした山田に孫文から連絡が入る。
「私が犬養さんに送った手紙の返事がまだ来ていない。それで犬養さんの真意を確認するため日本へ行くから、君も日本で待っていてくれ」
孫文は北京に行く途中、日本に立ち寄っている。書簡は支那一国にとらわれないアジアを大局的に見た経綸というべきものである。しかも、日本に対する期待と批判は、民族を越え、死をいとわず協力した日本人同志の心情を背にした警鐘であり、真の日本人にたいする懐かしみが表されている。
そこには革命家としての孫文の無垢な純情の吐露があり、人間、孫文としての忠恕あふれる熱情でもある。
◆西洋覇道の犬か、あるいは東洋王道の干城か
11月18日には神戸において『大アジア主義』の演説を行っている。孫文はこのなかで犬養宛に書簡と同様に、日本政府に痛切な猛省をうながし、日中提携によるアジアの復興を訴えている。
「今後、日本は世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道を守る干城となるか、日本民族として慎重に考慮すべきである」
"我、何人(なにびと)ぞ"と、果てどもない自己の探求は、まるで逍遥のごとくさまよい続ける日本の国家目標はときに選択するパートナーを間違え、おぼろげな目標に加え将来に取り返しのつかない禍根を残し、近隣諸国の嘲笑と期待していた日本に対しての落胆から怨嗟の念を抱かせている。
近年のアジア金融危機に際しても緊急の助力を求めるタイ国に対して、煮え切らない態度を示したばかりか、切羽詰まったタイ国は国際通貨基金に条件付きの支援をもとめてが国際通貨基金(IMF)はその資金の拠出を金満日本に押し付けている。
アジアの中の国として歴史的関係も深く、日系企業の進出などアジア共生のパートナートとなるべき国に対する姿勢はタイ国およびその民衆にしてアジアならざる国として映ったに違いない。フィリッピンのアキノ大統領、インドネシアのスハルト大統領、ミャンマーのスーチー女史、マレーシアのマハティール首相、台湾の李登輝総統といった指導者たちは日本および日本人に何を語りかけているか耳を澄まして傾聴するべきだろう。
援助を請うために迎合したりはしない。あるいは戦勝気分で恫喝や保証を求めてはいない。
シンガポールのリークワンユー元首相は米国訪問の際、日本の姿勢を咎める大統領にむかって「日本をそう悪く言わないでください。日本はアジアの兄貴分です」と、堂々とアジア人としての見解を述べている。
まるで遠大な計画もないまま商国家として栄えたカルタゴのように国家保全を傭兵や財貨によって賄った末路は歴史の実証でもある。
あるいは勧学文まで出して学問を奨励し朱子学をはじめ多くの学派、知識人を輩出した中国の宗でも明の攻略にひとたまりもなかった。それは学問奨励の掲げた目的は「書中、黄金の部屋あり」「書中、女あり」と、学問をして地位を得れば金と女は自由になるといったような「食、色、財」の欲望を学問の目的として鼓舞したからにほかならない。
経済や知識は進めば進むほど突き当たり、詰まるようだ。しかし、考えて見ればアジアの思考概念は「循環」と「無」というように無限の繰り返しによって作られている。それは人間を自然界の中で卑小な存在として認識することによって出発し、終結するように、西洋からすれば芒洋として意志を持たない未開に映るかもしれない。
だか、そこには神の啓示と称して世界を支配する欲望もなければ、再現のない拡大主義も存在しない。天地自然の中に一粒のごとく存在する人間たちの他愛のない作為によって生ずる一過性の現象を鳥瞰して自ずから訪れるであろう結果を歴史の知恵として理解しつつ濁流に遊び身を任せているのだ。
それは空虚な妄動や群行群止する民の様相とは異なり、自らの「分」の存在と役割を認めた「たおやかなアジアの矜持」である。孫文ルネッサンスというべきアジアの復興運動は、まさにその矜持の存在を確認することでもあったのです。
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【ミニ解説】
辛亥革命から十数年、中国はまず袁世凱の支配下にあった。それから北京を制した呉佩孚、段祺瑞、馮玉祥、張作霖ら軍閥の手中にあった。孫文といえば、広州を中心に細々と革命拠点を維持していたにすぎない。
国民党は孫文の手を離れて北京政府の議会の一翼を担っていたもののそれは形だけのものだった。孫文の国民党は1919年、上海で「中国国民党」に改組され、20年代に入ってようやく民衆の支持を得た革命政党に育つことになる。
一方、帝政ロシアを倒し革命政権の誕生させたソ連は中国国民党に急接近、1921年からコミンテルンのメンバーを送り込み、孫文に連ソ容共政策を採らせることに成功する。
孫文は革命における軍事的側面を重視するようになり、1923年に初めて軍事委員会が置かれ、黄埔軍管学校で軍人の養成が始まった。孫文は北伐を計画する一方で、北京政府との話し合いによる和解に最後まで固執し、1924年、段祺瑞の北京政府との話し合いを目指して、上海、神戸を経由して北京に赴く。
有名な日中が連携して西洋と対決しようという「大アジア主義」の講演はその際、神戸女学院で行われた。
北京では段祺瑞とも会談は実現せず、逆に末期がんに冒されていることが判明し、入院後3カ月の3月12日、60歳の生涯を終えた。
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(転載終了)
参考サイト
孫文の大アジア主義