
道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は辶(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。
道教では、道は学ぶことはできるが教えることはできないと言われる[2]。言葉で言い表すことのできる道は真の道ではないとされ、道士の書物や言葉は道を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不変の道」は各自が自分自身で見出さなくてはならないとされている。
神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。 また、拳法を通じて「気」を整え精神の安定を図る、瞑想によって「無為を成す」ことも道への接近に有効であるという[2]。
全世界で道教の信徒を自認する人は約三千万人程度であり[2]、 現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。
老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている[3]。
松岡正剛によると、道教の本には必ず道教とは何かを論じるー章が設けられるが、いずれも的確性を欠くのは「とうてい一義的な定義ができないから」だが、成立を見ていくとおそらく、神仙思想(キャラクタライズされた仙人と不老不死)が根本にあり、そこに老荘思想や陰陽五行説が混入し、伝わった仏教の影響から独自の様相に至ったと考えている。そして様々な流入要素を挙げている。[4]
- 老荘思想(道家)を道教の源とみなす。
- 老子を神格化して太上老君・元始天尊などとする。劉向が神仙に加え葛洪が最高位とする。
- それゆえ「道」(タオ)を思想する。また「気」の身体への出入りを重視する。
- 深山幽谷に住む仙人のイメージをふくらませて、長生長寿昇天を主たる教旨とする。
- 古来の「卜占」「蠱術」や「鬼道」(シャーマニズム)を利用する。
- 陰陽五行説や占星術や「易」を援用する。
- 長生のための養生術を衣食住に及ぼし、さらに房中術(男女の性愛術)にも及ぼす。
- 消災滅禍のための「方術」「道術」をつかう。またその訓練をする。
- 錬丹術や錬金術を追求し、金丹などの薬物生成に長じる。
- 独自の護符(霊符)を多用して、ときに調伏もする。
- 神仙道と天師道を混合する。
- しだいに教団をもつ「成立道教」(教会道教)と民間信仰として広がる「民衆道教」に分かれていく。
- どんどん道教の神々をふやしていく。
- 偽経も平気でどんどんつくる。
- 風水も気功も、武術も漢方もとりいれる。
《古代の民間の雑多な信仰を基とし、神仙説を中心としてそれに道家(老荘思想)、易、陰陽、五行、卜筮、讖緯、天文などの説や、巫の信仰を加え、仏教の体裁や組織に習って宗教的な形にまとめられたもので、不老長生を主な目的とする現世利益的な宗教である。》
要素
道教は複数の要素を含み、様々な論が試された[1]。
梁の時代の文学理論家劉勰著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵を襲う(醮事章符)と記している。これはそれぞれ老子の無為や虚柔の思想、神仙の術、祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類を指す[1]。
元の馬端臨は『文献通考』「経籍考」にて道教が雑多であると述べ、「清浄」「煉養」「服食」「符録」「経典科教」の5つを要素に挙げている。「清浄」は黄帝・老子・列子・荘子らの著にある清浄無為の思想、「煉養」は赤松子や魏伯陽らに代表される内丹などの修練、「服食」は盧生や李少君らに代表される外丹服薬、「符録」は張陵や寇謙之などに代表される符を用いた呪術、「経典科教」は杜光庭など道士と彼らが膨大な経典を元に行う儀礼をそれぞれ指す[1]。
どちらの書も、それぞれの要素は並列するだけでなく、歴史的な出現順を追って書かれた。仏教の立場から道教を批判的に書いた『滅惑論』も、その流れを汲み著された『文献通考』も、古い要素(老子の教え)は良いが、時代が下るほどに価値のないものになると論じている[1]。以下、『滅惑論』の区分で解説する。
老子

老子は実在の人物か否かの意見は分かれ、司馬遷の『史記』も自身に裏打ちされた記述とは言えない。著書『老子道徳経』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書や郭店楚簡から類推するに、戦国時代後期には知られていたと考えられる[6]。また「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[6]。
その一方で『老子道徳経』本来の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えたような黄老思想となった。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[7]、武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[8]。
神仙
老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った[9]。
『漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされていた[9]。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った[9]。
『漢書』以外にも様々な法技が行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、禹の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる[10]。
醮事章符(しょうじしょうふ)
様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、殷の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う[11][12]。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた[12]。
また道教では神秘的な「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられた。睡虎地秦簡・日書には符の存在を暗示する「禹符」の文字や馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。洛陽郊外の邙山漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された[12]。
道家と儒教との関係


道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教や仏教を指すこともある。実際、「道学」と言えば、それは儒学を指す。狭義には、「『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え」「老荘」と言う意味で使われる場合もある。そして、この「老荘」と関連して、「5世紀に歴史的に形成された道教」(茅山派)という意味でも、使われる。
「老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに"Taoism"と呼ばれたため、それを承けて近年は道教と道家は同じものを指すと考えられるようになった。
道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。
日本における道教
各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく[23]。
一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。
陰陽道
道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照。すなわち北極星という意味であるという説)。
五行思想
日本における陰陽道の中核をなす思想である。もともとは暦法や易は易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。ここには後世につたわる占術としての軽さは皆無であり常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。中にはそれを大道芸にした六魔と言う易者の芸人がいる。
修験道
古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。
風水
風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ、円になっている。
陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。
庚申思想
日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。
辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。
(転載終了、一部省略あり)