【義】とはなにか?


(以前、義について触れたブログ)
http://akimine-hm1283.blog.jp/archives/7374785.html

この【義】という文字。
多数のサイトで『見て字のごとく”我(われ)羊のように下僕す”と解釈』しておりますが、実はそうではなく下記にこれについて説明がございます。いまの世はなにかに全身全霊をささげることはどうも《安っぽい》ような認識感が存在し、尽くすイコール《ダサい》があるようですね。



“人の下につくのはイヤだ”


気持ちは三歩下がり理解しますが、しかし【義】とは”自分が認めた相手に対し、命を惜しまない忠義の心”となります。否応なしに下につくのではなく、あくまでも《自分が》全身全霊認めた相手という定義があると感じます。

一方的な上下関係のカテゴリーではなく擬装な兄弟関係のカテゴリーです。
《礼・孝・義》と三文字ありますがこれは「絆」(きずな)を指しており、師弟の絆は「礼」擬似親子の絆「孝」疑似兄弟の絆が「義」。つまり義は、異姓兄弟(名字は違うが兄弟のような仲)であり信頼のある親密な関係であります。


さて、【義】を説明した各サイトを集めてみました。

現代の私たち日本人は備わっていたはずの【義】をどこかに置いてきたと思います。武士道の精神にも通づるこのひと文字をあらためて理解を深め、心の精神を再起させ、利己ではない世のため人のための利他社会を再構築すべきです。





【義】墨子思想の最高理念

「義」という言葉は、漢民族の中国人は勿論のこと、日本人とアジア系民族には、ほぼ理解が共通する概念を言い表すものである。

ところが、「義」を国際公用語である英語に置換しようとしても、該当する言語が存在しないことに気がつく。

たとえば、英語で「義」を表現しようと思えば、Justice(ジャスティス=正義)、morality(モラリティ=道義、論理)、loyalty(ロイヤルティ=忠義)というように、前後の文脈に応じて使い分けなければ正確に意味が通じないことになってしまう。

ヤクザの親分は、「義の父」ということになるが、これを英語で言えばビジネスマンが上司の意味で使うboss(ボス=上司、社長)か、father in law(ファーザー・イン・ロウ=義父)などという珍妙な翻訳になりかねない。

いま、多くの日本語が国際語としてそのまま使われているが、yakuza(ヤクザ)やoyabun(親分)も英語圏の多くで国際語化している傾向にある。

これは、「義」という言葉が内包する正義や忠誠心、公正さ、誠実さ、思いやり、不屈の精神性などを自然に心情としてひとつに言い表す言語が英語には存在しないからである。

強いて欧米人に日本語としての「義」を説明しようと思えば、そのままgi(義)とした上で、その意味を「自分の利益を顧みず他者を助けて報酬を求めない考え方」「不当な権力を挫き、弱者を救う心と行動」「嘘をつかず、卑怯な行いをせず、自らの生き方でこれを実践すると同時に他者の卑怯をも敵として、これを改めずに人の世の和を乱す者には独力でも闘う意志」などと、極めて即物的に教えなければならなくなる。

漢文化系のアジア人と日本人には、そのような面倒な解説は不要で、日本社会に生まれ育てば、「義」というものを感性として理解できる。

こうした観点からいえば、「義」を取り戻し、その実践によって日本の国体と国力を回復すると同時に、国際社会の諸問題を解決する糸口を付与し得るのは私たち日本人や中国文化圏の民族でなければならないことがわかる。

このことは、誠に重大である。

なぜならば、墨子を生んだ中国も「義」の感性を国民的に理解している日本も、欧米から輸入した議会制民主主義制度や、そこから派生した市場原理主義、金銭至上主義に乗っ取られ、人間が本来持つ情理や人生の美学や哲学を破壊されたからである。

「義」という言葉を持たない国の文化文明に、「義」の民族性が侵食された姿が、現在の日本社会であり日本国民の姿なのだ。

(侠ー墨子 松本州弘著より)





2014-06-09-14-20-22


◆義
(Wikipediaより)
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9

義(ぎ)は人間の行動・志操に関する概念である。義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)

◇儒教における「義」
儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞(は)じる心のこと。

◇キリスト教における「義」
キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされる。これは他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいう。義しい人を義人と呼ぶ。
福音書、パウロ書簡などで主題化される。
神によって「義とされる」(義とする:ディカイオオー)ことも同じ問題圏に属する。
真に義であるのは神のみである(「義人はいない」)が、人間は神を信じることにおいて義さに近づくことができる。信じないことは不義と同義であるとされる。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れる。

ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされる(信仰義認)と考え、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などを否定した。


◇諱における「義」
義(よし)は、清和源氏、足利将軍家の武将・当主の諱において代々用いられた通字である。足利将軍家では、二代将軍・足利義詮以来、将軍は義の字を上にして、義満、義持などと名乗った。

当時、武士の社会では主君より諱の一字を受けることが家臣の栄誉と考えられており、将軍の諱も臣下たる守護大名、戦国大名に尊重された。故に各地の大名は幕府に寄進し、義の字ないし将軍の諱のうちの一字を賜った。これを一字拝領、一字書き出し、偏諱などともいった。足利義晴の時代にも、義の字を受けた武将として、大内義隆、晴の字を受けた武将に武田晴信 伊達晴宗 長尾晴景などがいる。義の字を受けようとする者は、幕府に500貫以上の献金を要し、諱の下の文字は300貫とされた。

今日でも人名において広く用いられている。


義は、孟子によって積極的に説かれた孔子より視野の広い徳目です。
つまり、春秋時代の孔子は血のつながりのある人を大事にすればそれでOKといったのですが、世間の広がった戦国時代の孟子は肉親だけを大事にしていたのでは社会が成立しないからだめだと主張したのです。
他人同士が集まって成り立つ戦国時代の社会では、主君を父と思い、主君の妻を母と思い、主君の同僚をおじと思い、先輩を兄と思い、後輩を弟と思うことで、血のつながりのない人に対してもまごころや思いやりを持たなければダメよと主張したのです。

(ネットよりコピペ)

◇日本語における「義」
義(ぎ)は日本語で漢字を用いる際の「意味」を表す。漢字の三要素は字形、音、字義とされている。用語を判断する基準となる。


◆義
(Wiktionaryより)
http://ja.m.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%A9

部首: 羊 + 7 画
総画: 13画
異体字 : 义(簡体字)
筆順 : 350px

字源
会意形声。「羊」+音符「我」。「我」はのこぎりであり、羊を神などに供える(「犠」)ためのこぎりできちんと分けること。「きちんと分ける」こと又は「神に捧げられたもの」の意から、「ただしい」の意が生じた。
派生字
「ただしい」、「筋目だった」の意を持つ会意形声文字。

儀: 筋目だった人の行為
羲:
犠: 正しく分けられた家畜。
議: 正しい言説

意義
よいこと、ただしいこと。
宜、誼は同義字であり、"誼”はしばしば義に書き換えられる。
正義、義理(日漢異義)
儒教における、「仁」と並ぶ徳目。
言葉に含まれる意味。
意義、類義語
本来のものではないが、社会的約束によりそのようになったもの。
義兄
本来のものではないが、仮にそのようになったもの。
義歯、義肢

2014-06-09-14-23-53




(ヤフー知恵袋より)
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/
q1146302376

「義」という字は会意兼形声文字で「羊」と「我」から構成されます。

まず、「我」という字のほうから…
実は「我」という漢字の本来の意味は、一人称を意味するものではありませんでした。

「戈(ほこ)」という字は「矛」と同じ、武器として用いられる《ホコ》を表す象形文字。
これに、ギザギザした鋸(ノコギリ)状の整然とかどめの立った刃を付けた象形文字が「我」の字です。

これを(ガ〈nga〉)と発音しました。
古代中国で、「われ(一人称)」のことを(ガ〈nga〉)と言ったことから、同音の「我」の文字を借用したのが、現在、一人称として用いられている「我(われ/ガ)」の文字です。

「義」という文字を構成している「我」の字は、《われ》ではなく、《ギザギザした刃をもつホコ》という原義のほうです。

「羊」という字は、そのまま《ヒツジ》という意味で、羊の顔を正面から見た様子で、完全なシンメトリーの字体となっています。
動物を表す漢字で完全なシンメトリーのものは「羊」のみで、古来より、シンメトリー(左右対称形)な形状は、バランスが取れていて、美しいものと考えられました。

そのため、「羊」という漢字には
《美しいヒツジ》という意味があり、転じて《うつくしいもの》という字義を含みます。

うつくしい“大”きなヒツジ=「羊」+「大」で、「美」という字はこのような成り立ちになっています。

したがって
「羊」《美しい》

「我」《かどめが立って形状が整っていること》
の字義が統合されて、
《きちんとしていて、傍目から見て美しく、かどめが正しいと認められる方法》
が「義(宜)」という漢字の原義です。

このことから、現在、通常「義」の字の意味として理解している
《人として当然のこと。人道的に理に適っているやり方》
という意味合いが生まれてきました。




義は、『我(われ)が羊のごとく忠実なる僕(しもべ)なり』の解釈は大違いであり、『我(われ)は人としての道を正しく進み徳の道を歩く』が正解に思います。(小林明峯談)


◆義〜武士道〜
(雑学辞典より)
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html
武士道での中心かつ最も厳格な徳目は「義の精神」とされる。「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、すなわち正義を指すものであり、「義」から派生した言葉に大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義、更には義理・義務・義憤・義侠・義士・義民・義挙などがある。武士はこの「義」を武士道精神の中心に据え、これを踏み外した者は卑怯者として糾弾の対象となった。

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。


◆義とは
(コトバンクより)
http://m.kotobank.jp/word/%25E7%25BE%25A9

デジタル大辞泉の解説
ぎ 【義】
[音]ギ(呉)(漢)
[学習漢字]5年
1 人のふみ行うべき正しい筋道。「義務・義理/恩義・信義・仁義・正義・大義・忠義・道義・徳義・不義」
2 私欲を捨て、公共のためにすること。「義塾・義倉・義捐金(ぎえんきん)」
3 意味。主旨。「意義・奥義・疑義・教義・原義・語義・広義・講義・字義・多義・定義・本義・名義」
4 血縁でなく約束でつながった関係。「義姉・義父・義兄弟」
5 実物のかわり。仮の。「義眼・義歯・義足」
[名のり]あき・いさ・しげ・たけ・ただし・ちか・つとむ・とも・のり・みち・よし・より





『義(ぎ)』とは何か?
今泉正顕 著 
「論語に親しむ」より・・・
http://home.owari.ne.jp/~shiva/part04/
tokumoku2.html

◆義を見てせざるは、勇なきなり。
[為政第二]
原文の意味・解釈

あまりにも有名な言葉なので、解釈はいらないでしょう。

原典では、この言葉の前に「その鬼にあらず、これを祭るは諂うなり」が入っている。
この時代の中国では人の吉凶禍福は、鬼神が司るものだと思われておりましたが、孔子は違っておりました。孔子は祖先の霊は信じ、大自然の神秘の力は、神として崇敬していたが迷信、邪教のたぐいは徹底的に排除しました。

「そんなことをすると鬼にたたられる。」などと言って正しい事が行われないようでは世の中はいつまでたっても良くならない。そんな事におびえる必要はない。もっと正義を貫く勇気を持てと激励した。

◆ 君子は義を以って上と為す。勇ありて義なき乱を為す。
小人、勇ありて義なきは盗みを為す。 
 
[陽貨第十七]
原文の意味・解釈

この章の全文{陽貨(ようか)第十七第二十三章}は次の通りです。

子路曰、君子尚勇乎、
子曰、
君子義以爲上、
君子有勇而無義爲亂、
小人有勇而無義爲盗。


子路が曰わく、君子勇を尚(とうと)ぶか。
子、曰(のたま)わく、
君子義以って上(かみ)と爲す。
君子勇有りて義なければ亂(らん)を爲す。
小人勇有りて義なければ盗を爲す。

これは、門弟「子路」との問答である。
君子(教養のある立派な人格者)は勇を尚ぶでしょうか。」
孔子は答えた。「もちろん君子は勇を大切に考えている。だが、勇気を奮う前に義を考え、それが正しいと思ってから行動に移す。勇気だけ重んじて義をないがしろにするとみんなが勝手に行動し、時によっては内乱を起こしかねない。」
「小人と言われる教養のない粗雑な人間は、勇敢なことをいいことに義を考えずに勝手に振舞うから、やがて乱暴狼藉に陥り、最後は盗みまで働くようになる。」


◆ 君子は義に喩り、小人は利に喩る。
[里仁第四]
原文の意味・解釈
「喩(さと)る」とは、よく知っていること。

君子(教養のある立派な人格者)は、利益になると知っていても、その前に道義的にどうかと道理を考える。小人(欲の皮のつっ張った三流の人物)は、利益と聞いただけで、儲けのために前後を考えずに、すべてに手を出す。


◆ 不義にして富み、且つ貴きは
  我に於いて、浮雲の如し。 

[述而第七]
原文の意味・解釈

この文言が含まれる全文{述而(じゅつじ)第七第十五章}は次の通りです。

子曰、
飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。


子、曰(のたま)わく、疏食(そし)を飯(く)らい水を飮み、肱(ひじ)を曲まげてこれを枕とす。
樂しみ亦た其の中(うち)に在り。
不義にして富み且つ貴きは、我れに於いて浮雲(ふうん)の如し。

先生が言われた「粗末な飯をたべて水を飲み、うでを曲げてそれを枕にする。
楽しみは、やはりそこにも自然にあるものだ。道ならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、わたくしにとっては浮き雲のように、はかなく無縁のものだ。


◆ 言、義に及ばず、好みて小恵を行う、難いかな。
[衛靈公第十五]
原文の意味・解釈

この原典{衛靈公(えいれいこう)第十五第十七章}は次の通りです。

子曰、
羣居終日、言不及義、好行小慧、難矣哉。


子、曰(のたま)わく、
羣居(ぐんきょ)して終日、言、義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行なう。難(かた)いかな。

先生が言われた。「一日中大勢で集まっていて、話が道義のことには及ばず、好んで小才だけひけらかす集まりは閉口する、なんと愚かで時間の無駄だろう。




◆世界宗教用語大事典
【義】


中国では「義は宜(よろし)なり」(『中庸』その他)として、ことがらの妥当性をいう。即ち正しい筋道のことであって、儒教では五常(仁義礼智信)の一つとして重視する。筋道を立てる心を忠義とか正義とか義理といい、正義のための行動を義援(捐)・義侠などという。ものごとの内容をもいう(意義・字義・教義など)。また仮にそのものにすることにもいう(義兄弟・義足)。キリスト教では、神と人間それぞれの特性の正しさを義という。

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