洪門(洪幇)と哥老(紅幇)に関する実史


小林です。
今日は表題の実史について、今までよりも一歩踏み込んで、そして、今までになかったこの未知の領域のことを述べたいと思います。


(ぱん)と読んだとき、洪幇と紅幇は両者とも「ほんぱん」と発音する。現在、学界(大陸と台湾を含む)は、 哥老会(かろうかい)の起源問題について、哥老会は四川は啯噜子(こくろうし)から進化したものだという合意に達している。

日本では、学界や専門家または結社の研究者たちはこの中国発祥の秘密結社について、長年研究や取材をおこなっているが、本当のところには触れていない。というよりも、たどり着いていない。ここは一般の人々が入っては行かれない領域があるからである。

研究結果や論文、あるいは記事、書籍、取材などを拝見するもその不確実性は否めない。稀に、このような「幇」に入会していたと思われる人たちによって書かれた書籍が世に出てくるが、これまた残念だが不確実な点が多く見て取れる。たとえ彼らから不満のさえずりが聞こえたとしても、これはひとえに、わたくし自身がその領域に存在しているからこそ言えることである。

洪門(ほんめん)とは天地会のことであり、両者は同一結社である。洪幇(ほんぱん)とも呼ぶ。


「哥老会の実際」

哥老会は、清代の咸同(かんどう)年間の間に形成され、四川あたりでは 袍哥(ぽうか)と呼ばれ、長江の中下流では「紅幇」と呼ばれている。

江淮(こうわ)地域には別の組織である青幇が存在するため、哥老会は「紅幇」とも呼ばれ、天地会(洪門)と構築が異なる組織であるため、清代には大きく、天地会(洪幇)、哥老会(紅幇)、 青幇という三大幇会が存在したと今は広く知られている。この色分けには理由がある。ただ、洪門内でも五大房(宗家)が色分けされているが、これは「五色人」とは関係が無いことをまずは申し上げる。現代では学校学習により読み書きは万人に与えられた基礎的権利だが、昔は学べない人々のほうが多かったため、組織や団体または宗派などを色別けにしたのにはそんな経緯「も」ある。

哥老会(紅幇)は、長江の中下流で青幇と同じく、主に私塩の密売などの活動に従事し、しかも中には武装もしていたので、清朝当局からの攻撃を受けていた。

哥老会が形成された後、会員たちは天地会(洪門)の多くの内容を吸収し、必要な養分だけを汲み取った。たとえば、起源の伝説には、天地会の『西魯物語』を模範して、内容を大袈裟に拡張し、 鄭成功が台湾で金台山明遠堂を創設したと主張したり、中には、部将が蔡徳忠または方大洪などの五人を派遣して、大陸に潜り込み、少林寺で僧侶としたり、天地会の西魯物語と結びつけたものもある。

哥老会が形成された時、天地会はすでに大きな勢力と知名度、影響力も持っていたので、哥老会は天地会を真似て「洪門」と名乗ったのが実際だった。今で言うところの「背乗り」だ。


「創作された歴史」

哥老会の会内にいた歴史の編纂創作者たちは、また天地会と哥老会が同じ源流であるという物語を創作した。その出所の多くは、水滸伝の伝記小説からの切り取りであり、壮大な創作物語をつくり、そうして内情をよく知らない人々は、哥老会を「紅幇」または字を「洪幇」にし呼ぶようになる。この二つの発音が「ほんぱん」と同じであるために混同がしやすかった。またちょうどその頃、革命党員たちも会党を団結させることが最重要の仕事としてあって、政治闘争の必要性から、多くの伝説の物語を付け加えていったのだった。

この政治闘争の必要性から、多くの伝説が物語ででっち上げられたうえに、左宗棠(さそうとう)の部隊には哥老会のメンバーがたくさんいるので、左宗棠自身も哥老会に加入したことがあり、そこでも龍頭大爺(りゅうとうおおや)などの伝説を創作した。

孫中山が語ったとされる両広総督が左宗棠に渡した文書も、実際は革命党員がでっち上げたもので、文書が存在することは不可能であり、そもそも左宗棠の史全集からも見つからないのである。

しかし、曾国藩(そうこくはん)の湘軍、左宗棠の楚軍、李鴻章(りこうしょう)の淮軍には、確かに多くの哥老会のメンバーがいたことは事実である。湘軍と楚軍には哥老会のメンバーが多かったために、曾国藩は湘軍結成の初期には、哥老会を結成することを厳禁とし、違反者は斬首をするほどだった。

ちなみに、光緒年間、確かに天地会と哥老会は互いに参考にして、一部の地域では、相互に融合や協力をする現象が見られた。これらには歴史的に記録がされている。しかしながら、総じて言えば、哥老会と天地会は実際には二つの異なる組織である。



「天地会と哥老会」

二つの組織は、起源が異なるだけでなく、年代、発祥地も異なり、天地会は乾隆年間に始まり、哥老会は咸同年間に形成されて、そして天地会は福建に始まり、哥老会は四川に始まる。

さらに、内部の組織構造も全く異なる。哥老会内には山堂香水があり、内八堂、外八堂がある。個々の組織を「山」とし、「替天行道」を掲げ、それぞれが独立した体系としている。一方、天地会(洪門)は、「順天行道」を掲げ、宗家を置き、古くからの伝統を継承し、共同和合の共同体とし、時代が必要とするときに現れるとしている。

その中で、よく見られるものとして、哥老会の手勢がある。「三把半香」(さんばはんこう)を哥老会は使う。

この「三把半香」の由来について説明しよう。

哥老の彼らは、明朝末の崇禎帝が3月19日に自殺した日を失念しないよう打った手勢(しゅせい)である。中指、薬指、小指の三本の指がまっすぐ伸ばし、人差し指を曲げて九とする。親指は立てて、これを「三一九」(さんいっく)と称する。

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また、他にもこの手勢をお線香に模し、最初の中指の香は羊角哀と左伯桃を祈念し、お香を「仁義香」と称し、二番目のお香は劉備関羽張飛の桃園の誓いを祈念し「忠義香」と、三番目のお香は梁山泊百八将を祈念し、「侠義香」と、そして、秦叔宝単雄信を祈念する半分のお香は、「有仁無義の香」と言う。四つの物語を手勢におさめているのである。このように手勢の詳しい説明は日本で初だろう。そして哥老は祭壇「忠義堂」の前で誓いをたてる。なお、この忠義堂は洪門にもあるが、祭壇を意味しており、暖簾分けなどの行為はできない。


洪門は「神」を降ろす。
それから儀礼が始まる。

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ちなみにこの手勢を、、、、、。


天地会(洪門)は使用しない。



「革命期の洪門の役割」

これについては、世間にいろいろな書物が出ており、ここでは割愛する。


「世界洪門について」

この件についてとくに申し上げなくてはいけないだろう。

1984年11月25日、ハワイホノルルで開催された興中会創立90周年記念イベントにて同時に開催されたのが、第1回海外洪門懇親大会だった。そこに、崔震権大哥(大哥(たいか)は会内の敬称)という人物が『世界洪門発展計画』を提案したことにより、世界合一会派の創建に向けた壮大な物語が始まる。

世界洪門総会についてのより詳しい経緯(開催日、開催場所、時間、参加者名、人数、議題内容、問題協議など)の内部文章を所持しているが、かなり長文のため割愛とし、簡略化したものを述べる。

世界洪門総会の設立過程としては、1984年、1989年、1992年の三回の準備会議を経て、1992年の吉月26日にホノルルで正式に設立することが提案なされ、会議の後、李志鵬大哥が日にちを選定し、ホノルル市政府に世界洪門総会の設立登録を申請した。その後さらに議論が行われ、1993年、1994年を経て、規約など多岐に渡り、意見交換が行われた。

そして、1995年8月20日から22日までドミニカ共和国で、ついに「1995年世界洪門総会第1回大会」が開催された。世界洪門総会準備会とドミニカ致公総堂が主催し、世界洪門総会の第1回大会が成立した。

ここからが重要なところであり、正統洪門の人々は皆知っていることでもある。

世界総会の選挙の過程で、台湾の劉沛勛氏、及び龔氏という人物らの個人行動が大問題に発展し、海外の洪家兄弟の不満を引き起こしたのだ。世界洪門総会が成立した後、この問題が起因となり、団体は終焉へと向かうのだった。
以降、海外各国の洪門組織が再参加することはなくなった。やがて、世界洪門総会という血と努力の結晶は、法に則って、ホノルル市政府によって登録が取り消された。


「非正統の頭角」

長年の苦労の末、世界洪門総会は成立するも、これら一部の人間による不良行為により、海外の洪家兄弟の多くが参加を棄権し、再び集まることはなくなった。一つの国際的な組織を立ち上げるには、とても時間がかかり、多くの心労や労力もかかる過程を経たものの、最後は悪に奪われてしまう形となるのだった。なんとも哀しい結果である。

今では主に、台湾の一部の人たちによって、ナショナル洪門(国際)ワールド洪門(全球)、などの名称が付けられ、あたかも国際的な活動をする団体と匂わしている。自分たちが犯してしまった悪業は横に置き、巨大な組織を垣間見たこの人たちは、どうにかして形だけでも生かせないのかと悪知恵を働かせる。しかし、こういう非正統の団体内でも内紛が起こり、劉の子分である蔡龍紳氏(親の代はうなぎ大王と呼ばれたものの息子にあたるこの人物が散財した)という人物が会內の役員を買収しようとしたりと、もはや権力闘争に似たお遊びごっこの状態となり、その後仲間割れをし、やがてこの蔡は新しい洪門(新洪門、日本にも進出し、名をニューフリーメイソン?)を名乗り出ることとなった。洪門なのか西洋のフリーメーソンなのかよくわからないが、良いどころ取りの背乗りなのだろう。(失笑)そして、ここは香港マフィアの尹國駒氏に名誉職を与えて洪門の名を称した団体を立ち上げさせた。マフィアと共同したのだった。誠に情け無い。名を出したのはこれ以上被害者が出ないようにするためである。どうしようもない連中だ。


むろん、この連中は破門扱いとなっている。二度と正統洪家の門をくぐることは許されない。そもそも彼らは「半票」(はんぴょう)者であり、正会員ではない。もしこの連中と運悪く出会えたのなら「半票者か?」と聞いてごらん。少しでも会内にいた人間はこの意味がわかる。


さて、YouTube動画などで、洪門と検索すると、動画内で腕を上げ下げする動作を見かけるが、多くが台湾から由来し、洪門と自称しながらも哥老会のしきたりを持ち込み、自分たちで会派を生み出したり、役職を付けたりしてママゴトで遊んでいる。もし、革命を起こそうとした組織団体の人間が、会合などで堂々とそんな動作でもしたら、当時は見つかれば即座に斬首はおろか、一族郎党が刑に処される。少し考えれば分かることである。

先程も述べた通り、哥老のここは基本的に独立形態の会である。個々のグループを「◯◯山」(正統洪門もそう呼ぶが)と呼び、暖簾分け(哥老にはある)された後は個別の運営となる。そこに目を付けたのが流氓や地域の顔役などだ。つまりヤクザ者である。黒社会の人間が表舞台に出たいときは何かを箔付けしようとするもの、そこに哥老会の看板を貰えればいいというやり方は持って来いとなる。また動画を見ていると、出てくるのはコワモテが多いと感じるのはそのせいであろう。やがて、本当のことを知らない人間が上に立ち、次の代は当然本当の経緯を知らなくなり、さらにその下の代はもはや本当とはなにかを知る由もなくなるという連鎖が今も継続されている。むろん、これらの非正統のエセ者の手によって作られた下部組織は、一般社会の通念を持ってしても、本物の洪門と認めることはないとこの場を借りて念を押して申し上げよう。

また、このような人々は、江湖小説や映画、ドラマなどから引用したり、海外の正統洪門メンバーをも騙して、隠語や詩句を盗作したり、そしてまた創作したりと、その歴史の編纂や創作意欲に余念がない。ただ、私事だが、創作されたストーリーはなかなかの内容でして、読んでいて逆におもしろい。きっと小説の上書き小説のお蔭だろう。


正統のルールに則り、しっかりとした協議を経て、正しい公認を持った国際的な洪門団体は今は存在しないことがこれでご理解頂けたことでしょう。

世界洪門の設立後、年次の登録会合も行なわなかったため、2000年11月28日にホノルル市政府に非自発的解散という誠に不名誉な名目で取り消されるのだった。
いずれも先に述べた連中が犯した不始末のせいであることは言うまでもない洪門の負の歴史である。

日本では洪門宗家と名乗っているのは、近年、世間様に「洪門」の名前が少しずつ知れ渡るようになり、元々秘密結社であるからして、一般人には正統と非正統の区別や判断が難しいゆえに、五大宗家内の長房青蓮堂から考え出された名称であり、本来なら「天地会」すなわち「洪門」のみを名乗る。宗家がわざわざ宗家と名乗るのはそもそもしない。彼らのお蔭で、こちらが迷惑を蒙り(こうむり)、余計な苦労をさせられているからである。また、英語では「チャイニーズフリーメーソン」と呼ばれているが、好んで使うは門外漢。内部の人間は「洪門」「天地会」と呼ぶ。さらに「アジアフリーメーソン」とも呼ばれますが、これはわたくし小林が創作したものである。今は背乗りの連中が好んでいる使っているようだが、我々は噴飯ものだ。

そもそも我々は着飾る必要もない。わざわざ世間にアピールや売り込む必要もない。仮面をかぶり動画に出ない。すでに世界規模のビジネス商業圏を持っているのに洪門の名を使い、商品化や商売したり、投資話を人々に持ち掛けたりしない。日本の宮家の名を利用したりしないし、誠に失礼にも程がある。墨家もない。洪門の歴史に汚点を与えるような羞恥の極み、至上の愚行はしない。

日本において、秘密結社とされる有名どころでは欧米のフリーメイスンリーだが、今回は我々の恥じる部分を正直に皆さんにお話した。正しい認識を知らせるためには、自らの身を削ることこそが 正心誠意であると考える。フリーメイスンリーの最上位の人物から「洪門に関係する書物は出さないのか」と聞かれたことがあったが、「書く必要はないと考えている」とそのときは答えたものの、時代がそれを必要とするならば、書こうと思うわたくしが現れるのかもしれない。

東洋発祥の巨大な秘密結社は少しずつその真の姿を見せようとしている、、、のかも知れないし見せないのかもしれない。


でも。


変化はいつか起きる。


いろんな智識と資料または世相から此度筆を握りました。


小林明峯 拝筆



❗️青文字のリンクできない箇所はご検索ください。



① 哥老会


② 袍哥

③青幇


④ 鄭成功



⑤ 正心誠意
◉ 中国の古典『大學』にある「正心誠意格物致知」(心を正し、意を誠にすれば、物にいたりて、知を致す)より