【私論評】「赤心奉国」という言葉に宿るもの──洪門の視座と霊性の眼差しから

2025年参議院選挙の総括の席にて、石破総理がお話なされたお言葉――「赤心奉国」(せきしんほうこく)。


真摯に丁寧に他党との議論を深め、赤心奉国の思いで国政に当たること。


一見すれば、古き美徳のように響くこの四字熟語。しかし、それが今、現代日本の政治空間に響いたとき、我々はただの標語として受け取ってよいのだろうか。


洪門の視座、そして霊性と歴史を見つめ続けてきた者として、わたくしはこの言葉の真意にこそ、今の日本政治の在り方が問われていると感じています。


「赤心」とは、飾り気なき真心、偽りなき誠である。それは自己の利得や地位保全のために装われる言葉ではなく、己の心根に一点の私欲なき状態を指す。


そして「奉国」とは、単なる国家体制への従属ではない。民の命を守り、天の理に則って国を養う行為そのものを指す。


一方で、我々洪門において「忠義」とは、上意に従うことに非ず。道義に従い、誠を尽くすこと。たとえ権力の座にあっても、天意に背くならばそれは「逆道」であり、たとえ一介の庶民であっても、道を貫けばそれは「正義の志士」となる。


この洪門の精神に照らして言えば、「赤心奉国」はただ口にするものではなく、行動によって証明されるべき道の誓いであります。


従って、わたくし小林明峯の見立てでは、石破総理のこのご発言は、現代政治における「徳の空白」に対する問いかけであったとするべきものだと受け取ります。


真に「赤心」であるならば、それは声なき民の嘆きに耳を傾け、国家の礎である“縁なき者たち”への慈愛を持つものでなければならない。

また、「奉国」とは、時代や制度の維持のためではなく、この国の霊性、山河の記憶、先祖たちの願いに応えることであるべきです。


国とは“人”の集いであり、ただ“システム”ではない。


そこに仕えるというのは、人間という存在の全体に誠を尽くすこと、また石破総理がこの言葉を用いたのであれば、それは単なる政治的スローガンであってはならず、自己の地位を守るためではなく、真に民と天地に誠を尽くす心構えを示すべきものと、洪門は見るだろう。


洪門五祖はかつて、逆境の中にあっても「義のために身を投じた」。


その精神と重ねれば、「赤心奉国」とはただの言葉に留まることなく、行動にこそ真価が問われる旗印であります。だと私は考えます。


「赤心奉国」――この四文字が、単なる古語の引用にとどまるのか、それともこれからの時代に“真実を生む言葉”となるのか。


その行方は、言葉の重みに応えるか否か、為政者の覚悟にかかっている」でしょう。


我々は今、洪門がかつて掲げた「義に死し、名に生く」の精神をもって、この国の政治に再び【道】が通ることを願わずにはいられない。


単なる国家主義でもなければ、空虚な保守思想でもなく、現代という混濁の時代において、もう一度“誠の政治”を取り戻そうという祈りにも似た表明であってほしい。


だが同時に私は問いたい。


果たしてその「赤心」とは、誰に向けられているのか?


本当に「奉ずる」べきものは、“体制”か、“民意”か、それとも“天の声”か。


「赤心奉国」とは、使いようによっては威厳を装う盾となり、また逆に、自らを焼いて照らす灯火にもなる


そのどちらに立つのか――それを決めるのは、言葉の響きではなく、その人の歩む道であります。



まさに洪門の「文に道を載せ、言に義を宿す」行いでございましょう。




文小林 明峯(こばやし・あきみね)



洪門天地會青蓮堂日本總會  

日本国總會長/洪門伝統思想研究者





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