無銘(むめい)の誇り 
〜真の志士は面子(めんつ)を追わず〜

わたくし(以下 私)はこれまで、数多の人間と出会い、激動の荒波の中で多種多様な出来事を経験してまいりました。その長い歩みの中で、骨身に沁みて痛感している冷厳たる事実がございます。

それは、「無意味な面子(プライド)に固執する者ほど、物事の本質から遠ざかり、自らの魂を曇らせていく」という事実でございます。

特に昨今、自ら進んで「俺は洪門の者だ!」と吹聴したり、洪門の名をビジネスの道具として利用しようとしたり、あるいは虚勢を張って威勢を散らすような手合いが散見されます。

さらに、あちらこちらに顔を出し、仕舞いには自叙伝のごとき本を著して世間に自らを誇示するなど、そうした短絡的な思考を行動に移す人間について、わたくしはここに断言いたします。

「その多くは、真の洪門の志を継ぐ者ではございません」


一、 徳は孤ならず、必ず隣あり

真に洪門の魂を宿す者は、その徳を自ら語ることはございません。

むしろ、自らの内なる「義」を静かに見つめ、人知れず世の安寧のために尽くすことにこそ、無上の喜びを感じるものでございます。

「桃李(とうり)もの言わざれど、下(した)自ら蹊(みち)を成す」という言葉がございます。

真に価値ある人の周りには、自ら宣伝せずとも自然と人が集まり、道ができるのです。

自ら看板を掲げて歩き回るような真似は、内実の空疎さを露呈しているに過ぎません。


二、 洪門は「志」であり「看板」ではない

洪門を商売の手段としたり、己の虚栄心を満たすための道具とする。そのような不届きな振る舞いは、先人たちが命を懸けて守り抜いてきた「志」に対する冒涜でございます。

顔を売り、名を売ることに汲々とする時間は、己の「智」を磨き、「仁」を実践する時間を奪うものです。

真の志士は、常に謙虚であり、己を律する「礼」を重んじ、静寂の中にこそ真実があると心得ております。


三、 本質を見極める眼を持て

新時代を生きる皆さんに申し上げたい。

声の大きい者、派手な振る舞いをする者に惑わされてはなりません。

真の力、真の知恵、そして真の誇りは、常に目立たぬ場所に、そして深い沈黙の中に宿るのです。

己を誇示することをやめ、無意味な面子を捨て去ったとき、初めてあなたの前に「本質」という名の真実が姿を現すでしょう。

洪門とは、
外に語る名前ではなく、

あなたの内側に秘めた

「不滅の覚悟」のことなのです。

至心合掌
小林明峯 拝

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